いつまでたっても書けないという人と話をしていて、ついイライラしてしまうのは*1、その人の関心というか価値観というか、大風呂敷を広げていえば世界観みたいなものが見えないというときだ。何かアドバイスしても、「それって偏ってませんかぁ?」みたいな反応が返ってくる。率直にいうけれど、《偏らず公平なものの見方を心がけなければならない》とは、それなりに偏っているかもしれない自分の見方があったうえで初めて意味を持つ。自分なりの偏りさえ持たない者にとっては、何の意味もない言葉なのだ。そのへんをちょっと確認してみよう。

図と、その説明文を手がかりとして、「客観」ということについて、あなたの考えを述べなさい。(300字以内)
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通常「客観的」とは、対象の属性(この際「性質」と見ておいて構わないっす)を忠実にとらえることと理解される。この図はよく知られた錯視の一例である。この場合、平行線A、B に対してabcd は一直線上にある。しかし、だれの眼にもabcd が一直線上にあるようには見えず、abc'd' の方が一直線に見える。abcd が一直線であるという事実の方を客観的事実とみると、だれの眼にも一直線上に見えるという事実の方はどうなるのであろうか。

香川医科大学で出題された、ちょっと古い小論文問題だ。いきなり自分なりの「客観」についての意見を述べなさいというのではなく、「図と、説明文を手がかりとして」とあるところに一応注意してほしい。

ものを見る人(主体、主観、Subject)が対象(客体、客観、Object)を決める!

「説明文」そのものには難読箇所はないだろう。

ここで、もし説明文にあるように《abcd が一直線上にあること》が「客観的事実」であるとすれば、一体何を対象とした場合の話になるだろう? これは問題なく提示されている図を対象とした場合の属性として理解できるだろう。

ここで大切なのは、説明文末尾の《だれの眼にも一直線上に見えるという事実》だとされているところ。つまり、人の視覚を対象とした場合の、錯視という客観的な事実として捉えられるということだ。たしかに、「abc'd' が一直線上にある」っていうのは勘違いなんだけど、ヒト(の視覚)は、この図を見たときに勘違いするという性質を持ってるということ自体は事実であるに違いない。

簡単に整理すると、以下の表みたいな感じ。

 対象  性質 
 提示された図  abcd が一直線上にある 
 人の視覚  abc'd' が一直線上にあると見えちゃう 

客観的事実を導き出すためには、まず何か対象がはっきり決まってないきゃいけないというあたり、これで何とかわかるだろうか。何を対象にするのがかわからない段階では、そもそも何の性質を調べればいいんだかわかるはずがないのだ。

対象を決める要因とは、では何だろう?

これは当然、ものを見る人、観察者の判断だよね。観察者は、しかじかの対象の性質を知ることに、何らかの意味、価値を見い出して、そいつを調べてみようと考えるわけだ。ここで「何らかの価値があるって考える」ってことは、ちょっとトリッキーな云い方に思えるかもしれないけれど、観察者の「主観」だといえる。観察する人が主体的に「見よう」と判断しない限り、どんな「客観的事実」、「客体(対象)の性質」も浮かび上がってこないわけだ。

とすると、僕たちが「客観的な事実」として受けとめているあれやこれやの知識も、その根本をたどっていくと、そいつを見い出した人の主体的判断、主観が存在していたはずだ、ということになる。

つまり、説明文が語っているような「客観的事実」の成立には観察者の対象を決定する「主観的判断」が不可欠だってことになるわけだ。ちょっとトリッキーな感じがして、すぐには呑込めないって人も出てきそうだけど、理屈はそんなに複雑じゃないし、哲学的にむずかしい話をしているわけでもない。落ち着いて考えてみて。

図形や幾何学にもっぱら関心を持つ者ならば、まず示された図に目が向かうはずだ。それに対して、人間や人間の視覚に興味を抱く者なら、その図を人間がどのように見るかを正確に捉えようとする。それは別に不自然じゃないでしょ? 「客観的な事実」が見出される根底には、その事実を見出した人の関心=観点、いいかえれば主観が不可欠な要素として働いている、ということになる、でしょ?

何で、こういう問題を取り上げたかっちゅーと、ものを見つめ、考えるためには、自分なりの問題意識が必要じゃいということを強調したかったから。ただホゲラーとものを見てたって、考えるべきあれやこれやがどっかから降ってくるわけじゃぁない。だから、当然のことながら自分なりの文章がスラスラ書けちゃうなどということもない。

虚心坦懐、観察の権化みたいなチャールズ・ダーウィンでさえ"Let your theory guide your observation"なんて云ってたりする。あらかじめ一定のものの見方をもって観察しなきゃ、ろくな観察はできやしねーよ、ってわけだ。

もちろん、観察した結果、もともと自分の抱いていた観点や関心に修正を加えなきゃいけなくなることだってあるし、主観で対象の性質を歪曲していいって話をしてるわけでもない。でもとにかく、ものを見、考えようとするなら、とりあえず自分なりの関心をもって世界に対峙しなければダメだってことだ。ホントに云いたかったのはそれだけなんだけどね。

以下、とりあえず、最初の問題の解答例。別にこれ以外の答えがないなどとは考えないけれど、まぁ、ここまで述べてきたことをまとめてみるとこんな具合かな、というところを掲げておく。

客観とは、事実を捉えようとする人の主体的な取り組みに応じてあらわれるものだと考えられる。abcdが一直線であるという客観的事実が成立するのは、図に関心を寄せ、対象とし、その属性に忠実であろうとした場合である。それに対して、だれの目にもabc'd' が一直線に見えてしまうという事実もまた、人間の視覚に関心を寄せる者にとって、錯視現象というそれ自身興味深い客観的事実として捉えられる。ただ漠然と眺めるだけでは、何ら意味ある事実は見えて来ない。観る者の関心の深さに応じて、世界が持つ意味を知ることができるのだ。このような意味において、客観は観る者の主体的なあり方に支えられているといえるのである。


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  • 注1 すみません、人間ができてないもんで。はれほれ。