写真は5日、所用の道すがら。三ヶ日も過ぎて、もういているだろうと踏んでいたのだけれど。うーん。境内も同じような具合で、落ち着いて拝めるというふうぢゃなかった。残念。「撤去作業」と書いたけれど、菅原神社は戎様も祀られているから*1、戎祭に備えての設営も加わっていたのかもしれない。考えてみれば、いくらなんでも松の内に初詣関連のアレコレを撤去しちゃってオシマイってことはなさそうだもんなぁ。

作業中でなければ、以下のような具合。鳥居前は、呑み屋が建て込んだ狭い通り。なかなか撮りづらい。上の写真も向かいの店の壁に背を貼りつけるようにして撮ったというのに、なんだよ、ストリートヴューのほうがよほどちゃんと撮れてるぢゃないか。うー。

ストリートヴューでは、楼門正面からは境内に入れないが、右脇の「菅原神社」と記された碑をクリックすると入ることが出来る。ストリートを移動するときとはかなり勝手が異なる*2みたいだけれど、一応境内が見られるようだ。

鳥居奥の随身門は、界隈の建築ではめずらしく金比羅宮とともに戦災による焼失を免れている。楼門建築そのものも府下ではめずらしいらしい。大阪府の文化財指定を受けていたはず。

常楽殿南門は、この画面を右に進んで出喰わす通りを左に折れてちょっと先。通りの左側に注意していればわかる。こちらはたしかにちょいとお寺さんふう。

「たしかに」というのは、神仏混淆が当たり前の時代の創建で、成り立ちを記せば、常楽寺境内に設けられた天神社、神仏分離を契機に寺関連のアレコレを廃して菅原神社となったとかなんとかいう事情による。随身門だって考えてみれば、楼門といえばお寺さんに決まってるJK。そこいらへんはググればただちに確認できる(菅原神社 堺[ググる!])。

石田梅岩は1817(文化14)年、堺で心学塾、庸行舎を開いている。この坐像は、それを記念しようということで、1939(昭和14)年に当時の府立農学校経済農場の北門に作られたのだそうな。いつぞやの「学舎之趾」hatebuのあたりになるはず。どういう事情でこちらに移されたのかは知らない。でもたぶん、元々は櫛屋町大道での開塾、農学校では記念の像を設けるにはいささか遠い。隣町(くらいになるのかな?)とはいえ近所には違いないし、適当な土地が確保出来るのであれば、学問の道真公と商売の戎様に間借りするのも、何となく石門心学と似つかわしくもあって気が利いているぢゃないかとかなんとかいった具合なんぢゃないか*3

決して名作、傑作だとは云えない造形、千虎の本領である動物像、たとえば獅子像や大浜公園の樺太犬像の勢いにはいくらか劣る感じがしなくもないけれど、一般によく知られた肖像*4の雰囲気をとどめつつも、そこに見られる神経質な表情をずっと穏やかな、実直さみたいなふうに捉え直したところなどは悪くない、というか、いいんぢゃないかと思う。


と、そんなこんなで、結局初詣というふうぢゃなくなっちゃったのだけれど、2月にでもまた出かけますかね。


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菅原神社については、104ページ下にちょろっと記述があるだけなんだけれど^^;


  • 注1 このへんはちょこっとだけだけれど、「本日の海底隆起/戎島」hatebuでも触れた。
  • 注2 進行距離が雑なので、たとえば下で取り上げる石田梅岩坐像その他の見どころが表示できないのは残念。こういうのは知っているヒトが撮影しないとダメなんだろうなぁ。それとも、せっかくの見どころは見に来なさいというわけで、撮らせなかったんだろうか?
  • 注3 これは素人の完全なアテずっポ、ゆめ信用召さるナ^^;
  • 注4cf. 石田梅岩 - Google Images Search