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最終更新日時 : 2016-04-19 12:59:36  

墓石の下の空洞は
冬の乾いた空気のなかで
ひんやり湿っていた
骨壺に澄んだ水がたまって
母の骨はそのなかにひたされていた 水を流して
そのかたわらへ父の骨壺を置く

薄い日差しを裂いて
石の上を鳥の影が渡った
遠いものがいっそう遠く
十二月の透明な光のなかへ消えてゆく

三好豊一郎[ググる!]「鳥の影」

リンク集ばかりぢゃアレだな、ということで、最近の読書の中からひとつ。

入沢康夫[ググる!]『詩的関係についての覚え書』(思潮社)を読み返していて、ひさしぶりに目にした一篇。《一行アキで隔てられた前半六行と後半四行との対比といひ、末尾から二行目の「遠いものがいっそう遠く」の利き具合といひ、間然するところのない作品である》*1との評言に加えるべき言葉はほとんどない。

『荒地』の詩人たちはみな巧いのだけれど、これはまた格別、畏れ入りましたとしか云いようがないなぁ。ものの並んだ地中を見つめ、何もない空を見上げる一連と二連の対照、見事ではあるものの、実体験から得た着想であっておかしくない。けれど、《遠いものがいっそう遠く》なんて、一体どこからやって来た言葉なんだか。

「遠い」と語り得るのは、それを感じ取っているからに他ならない。裏を返せば「遠い」と語ることでそのなにがしかの気配は彼方から滲み出す……っと、解釈の誘惑にうっかり乗ってしまいそうになるのだけれど、そんなものに手を出した暁には、日頃のゾンザイな言葉の扱いのバチがテキメンに降りかかってくること必定。アテクシなんぞは、黙って呑み込むがよろしい。


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小説であれば、現代作家のものでも単行本のストレートな文庫化がなされるのになぁ、というようなことを貧乏すると考え込んぢゃいますね。うーん。『覚え書』はFからの賜り物として手許にあるからいいのだけれど。


  • 注1 入沢康夫『詩的関係についての覚え書』p.190


最終更新日時 : 2016-06-02 23:46:48  
20150419144438

写真は本文とあんまり関係ないです。

芥川龍之介に「蜜柑」という短編がある。『新潮』に発表された折には「私の出遇つた事」と題されていたこと、米騒動の翌年に発表されたこともあって、芸術至上主義っぽい芥川にしては体験に基づいたリアリズムぢゃんとか何とかいわれているヤツ。そう受け止めたって別に構いやしないんだろうけれど、そう云ってしまうと見落とされてしまう細かな言葉の芸がある。

この作品の見せ場は間違いなく、

……するとその瞬間しゆんかんである。まどから半身はんしんしてゐたれいむすめが、あの霜燒しもやけのをつとのばして、いきほひよく左右さいうつたとおもふと、たちまこころをどらすばかりあたたかいろまつてゐる蜜柑みかんおよいつむつつ、汽車きしや見送みおくつた子供こどもたちのうへへばらばらとそらからつてた。……

芥川龍之介「蜜柑」(青空文庫) はてなブックマーク - 芥川龍之介 蜜柑

とその前後あたりだという点で大方の同意は得られるだろう。たしかに《忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて來た》は見事なものだと思う。蜜柑のオレンジと空のブルーという補色関係の美しいコントラストは息を呑む以外に対処のしようもないくらいだ。けれど、この部分が見事なのは、そういう部分的な言葉の選択によってのみのことではない。書かれている言葉をていねいにたどり続けてきた読者であれば、この一節は如何にも唐突で不自然なものであると気づくはずである。

話の発端を思い起こしてみるといい。

あるくもつたふゆ日暮ひぐれである。わたくし横須賀發よこすかはつのぼり二とう客車きやくしやすみこしおろして、ぼんやり發車はつしやふえつてゐた。とうに電燈でんとうのついた客車きやくしやなかには、めづらしくわたくしほか一人ひとり乘客じようきやくはゐなかつた。そとのぞくと、うすぐらいプラットフォオムにも、今日けふめづらしく見送みおくりの人影ひとかげさへあとつて、ただをりれられた小犬こいぬが一ぴき時時ときどきかなしさうに、ててゐた。これらはそのときわたくしこころもちと、不思議ふしぎくらゐつかはしい景色けしきだつた。わたくしあたまうちにはひやうのない疲勞ひらう倦怠けんたいとが、まるで雪曇ゆきぐもりのそらのやうなどんよりしたかげおとしてゐた。わたくし外套ぐわいたうのポケットへぢつと兩手りやうてをつつこんだまま、そこにはひつてゐる夕刊ゆふかんしてようと元氣げんきさへおこらなかつた。

ibid.

20150419151547

マンセルの色相環*1

芥川作品によくあるパタンではあるが、お話は夕刻に始まっている。もうそのことを思い浮かべるだけで、先の山場の不自然はご理解いただけるのではないか。「或曇つた冬の日暮」、「電燈のついた客車の中」、「うす暗いプラットフォオム」、「まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた」……時間帯であれ天候であれ、いずれも暗い。その発端から山場に至るまでにどれほどの時間が経過したのか、正確なところはわからない。わからないけれど、翌日の朝なり昼間なりに至るほどの時間は経過している様子はない。皆無である。とするならば、窓外の光景は一層暗さを増すことはあっても、小惑星なり隕石なりの大気圏突入によって大火球が生じるといった事態でも生じないかぎり明るく変わる心配はまずないといっていい。ならば、「心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑」など目に見えるものとしては不可能事なのである。もちろん、それはその瞬間目に見えた蜜柑の具体的な見え方を描いた言葉ではないと言い募ることも出来なくはないかもしれないが、しかし、その言葉から、光の中、青空を背景に宙に舞う果実を想起しない読者はそんなに数多くはいないだろう。実際に数えてみたわけぢゃぁございませんが。気がつかないにしたって、見せ場までの言葉をたどっていれば、その、暗い暗い印象くらいは頭にあって、その暗さとのコントラストのおかげで、補色のコントラストはさらにくっきりと明るい印象を読者に与えることになる。

また、一読すればまず誤解しようもないこと、したがってまたここいらへんはいくらなんでも説明は要しないと思いたいところだが、本作品は一貫して「私」の視点から描かれている。したがって、蜜柑の落下も本来的には「私」は客車の窓から眺めているとしか読みようがない。とするなら、「小娘」がよほど高く蜜柑を投げ上げなければ、「私」の視点からでは「空から降つて來た」とは語れないのである。しかし、「小娘」は手を「勢よく左右に振つた」だけであり、高く投げ上げたことを伺わせる言葉は一切ない。つまり、ここでは車内の「私」から「子供たち」への、現実にはあり得ない視点の切り替えが行われているわけだ。

リアリズム的表現を貫くなら、《暗い影だけの蜜柑がおよそ五つ六つ、見送った子供たちの頭の上にばらばらと落ちて行った》とでも書くより他ないことになる。そうなってしまうと、先に触れた空に舞う蜜柑、ブルー地に複数のオレンジの点のコントラストはテキストにはあらわれ得ず、見どころは見どころの力を失い「蜜柑」の魅力も完全に消え去る。この核心的な部分は、どうころんでも体験に基づきようがない、あくまでも言葉の上での出来事なのである。

「蜜柑」の見どころが見どころであるためには、見どころ自体は輝かしく明るくなければならず、一方見どころが際立ったものであるためには、お話の環境自体はあくまでもどんよりと暗くなっていなければならない。そうなるとどうしたって表現は何らかのあからさまな不自然を抱え込まざるを得ない。しかも、幻想小説や超現実主義的散文詩を目指しているわけではないこの芥川作品にあっては、表現はあくまで不自然を感じさせないものでなければならないだろう。

で、実際のところ、時間の経過を考えた場合の光の不自然と視点切り替えの不自然、2つの不自然を抱えてなお不自然に気づく読者が少ないという現実は、やはり芥川の筆の冴えの賜物ということになる(んぢゃないか)。

とまぁそんなこんなで、「蜜柑」はリアリズムというよりも言葉の技術の集積として形を成している。そこいらへんを読まずに、体験に基づいたリアリズムがぁとか登場人物の心情の色彩による表現がぁ云々とかなんぞと語っていると、芥川は間違いなく草葉の陰で舌を出している。見せ場に至る技術の詳細は、例によって面倒臭くなって来たので書かない。各自、本文に当たって考えられたし。って、愉しみのための読み流しの読書としてなら、まぁそのへんはどうでも別にいっか、という気もするけれど、うーん、学校とか塾とか予備校とかで教材として扱われる折にはそういう話が全然なされないっちゅうのもどんなもんかな、とは思うなぁ*2。というわけで、「蜜柑」の話、どうせもうだれかが口にし書きもしたんぢゃないかとは思うんだけれど*3、こういうところに書いておいても、まぁバチは当たらんだろうと思う折があったので、とりあえず。



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アマゾンで「芥川龍之介 蜜柑」で検索したら出てた。目次を確認したら「蜜柑」についても話が出ているみたい。ひょっとすると上に書いたことと被る話が出て来るのかしら。そうだとしたら、うーん、このエントリもずいぶんお間抜けを仕出かしているってことになるかも。覗いてみにゃぁなぁ。


  • 注1 マンセル・カラー・システム - Wikipedia はてなブックマーク - マンセル・カラー・システム - Wikipediaより拝借。色相環の円周上、お向かいにある色相を互いに補色の関係にあるという。お互いの色彩効果を高め合うといわれている。カウントしたわけぢゃないけれど、日本の近代文学中、補色の関係を用いた表現はそんなに多くないんぢゃないかな。あるとしてもまず赤と緑。イタリアン・カラーかなぁ。もしそのへんの見当が正しければ、日本近代文学史上、稀で効果的色彩使用例とかなんかでだれか「蜜柑」を取り上げていそうな気もする。どうかしらねぇ。
  • 注2 「蜜柑」は国公私立を問わず大学入試で複数回出題歴がある作品なのですぢゃ。っと、公立はなかったかな(^_^;)。高校入試にだって登場していた例があったはず。
  • 注3 たとえば、視点の切り替えについては、ここの常連さんなら目にしているであろう、@borujiyaza1 はてなブックマーク - Tweets with replies by 楽しいボルジア一家 (@borujiyaza1) | Twitter先生の「日本近代映画の起源」(borujiaya) はてなブックマーク - 日本近代映画の起源 | borujiayaにも言及がある。


最終更新日時 : 2016-06-03 00:31:02  

llist25の YouTubeチャンネル はてなブックマーク - list25 - YouTubeから。その順位でええんかいな、「科学的」というにはいささか幅広すぎやしないか、っていうか、第1位がそれですかぁ? というようなアレコレはあるのだけれど。本エントリの刺身のつまみたいなものってことで乞う御容赦。


では、本エントリの主題はといえば、「独出版社シュプリンガー、機械生成の「でたらめ」科学論文を撤回へ」(AFPBB News) はてなブックマーク - 独出版社シュプリンガー、機械生成の「でたらめ」科学論文を撤回へ 写真1枚 国際ニュース:AFPBB Newsにまつわること。どうもネット的には上のヴィデオにも登場するソカールの所謂「ソーシャル・テキスト事件[ググる!]」を並べて、なんだ査読がエエ加減なんは人文社会科学系に限った話やないやん、自然科学系だってと喋々、ちょうど都合よくというか折悪しく、STAP細胞論文、その査読を含めたあれこれをめぐるなんやかやが取り沙汰されているときにこんな話が発覚したものだ、と感心しないわけにはいかないのだけれど、そういうとこいらへんはオツムの足りないアテクシはパスするとして*1、個人的に気になったのは記事に登場するコンピュータプログラムのことだ。

SCIgenは、無作為に選んだコンピューター工学用語をちりばめた見栄えの良い「研究論文」をワンクリックで次々に作成する。

(小見出し省略)

例えばこんなふうだ。「一定時間技術とアクセスポイントはこの数年で、未来学者と物理学者の双方から大きな関心を集めてきた。スーパーページに関する広範な研究を長年重ねた結果、われわれは128ビットアーキテクチャとチェックサムの適切な一体化を確立した」

図表と引用は科学論文に不可欠な特徴だが、こうした「論文」にも必ず偽の図表と引用が収録されている。SCIgenのケースでは、数十年から数百年前に亡くなった著名な科学者の論文で最近参照されたものがその中に含まれているという。

SCIgenは、米マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology、MIT)の研究者らが2005年に考案したプログラムだ。

MITの研究者らはSCIgenを用いて意味不明な論文をでっち上げ、学術会議に投稿したところ、論文は正式に受理された。研究者らは後にこの「でっち上げ」を公表して、誤りを防ぐための措置に欠陥があることを暴露した。

SCIgenは、次のWebサイトで無償で提供されている: http://pdos.csail.mit.edu/scigen/

ibid.

この記事でいう「学術会議」ってちょっと何のことやらだったりするのだけれど*2、それは措くとしてそれなりに確立しているであろう専門領域の読者にいくらなんでもこれは通せないとは思わせない程度にもっともらしくないわけでもない文章が自動生成デキてしまうというところ、おもしろそうぢゃないか。

ツイッターを見ていると査読をしなきゃいけないんだけれど、面倒臭くてたまらん系の書き込みをなさる大学の先生方は結構いらっしゃる。詳細はわからないけれど、文面から勝手に想像するに、査読に対する態度は先生によってずいぶん開きがあるように素人目には見える。斜め読みのやっつけ*3から本格的な読みの格闘に至るまで千差万別*4 、斜め読みくらいのヤツならひょっとして誑かすのは簡単かもしれないが、まったくデタラメの文章生成、たとえばスパムサイトに見られるワードサラダ[ググる!]的なものではさすがにこのレヴェルでも通用するとは思えない。すると、たぶん件の論文生成プログラムはある程度ヒトを誑かすのに有用な工夫が凝らされていると考えられるのではないか?

ヒトには誤読や見落とし、過剰解釈の癖みたいなものがある。ちゃんとまとめて考えたことがないからアレなんだけれど、我が現代文や小論文の受験向き指導稼業、受験生くんばかりぢゃなくて添削者さんの書いているものを見ながらそういうことを感じる折って結構ある。話は実は査読レヴェルの読解にもあって、たとえば以前にも取り上げた「論文査読者は特定の研究成果に好意的になりがち?」(論文執筆や学術的出版、ジャーナル選択や投稿手続きにおける日本人研究者のためのコツ | 英文校正エナゴの学術論文ブログ) はてなブックマーク - 論文査読者は特定の研究成果に好意的になりがち? « 論文執筆や学術的出版、ジャーナル選択や投稿手続きにおける日本人研究者のためのコツ | 英文校正エナゴの学術論文ブログで扱われているようなヤツ。2009年に Natureで発表された論文に出ていたお話として

この実験では、まったく同じ論文の結果だけを「AよりBが優れている」としたバージョンと「AとBは同じだ」としたバージョンの二種類を作成し、複数の人に査読してもらいました。ここで注目したいのが、その論文の実験方法には、いくつかの小さな課題やミスが含まれていたということです。査読者は、このミスに気がついたでしょうか?

「AとBは同じだ」という結果の論文を読んだ人達は、期待通りに実験方法の小さなミスや課題に気がつき、色々な改正案を提案しました。ところが、同等に優れた査読者であるはずなのに、「AよりBが優れている」という結果の論文を読んだ人達は、これらのミスや課題にまったく気がつかなかったのです。つまり、査読者も人間。「物事の違い」をよしとし、鵜呑みにする傾向があるということになります。

というのが紹介されている。ソースの具体的な紹介がないから元論文はたしかめられないのだけれど、でも経験則的にこういうのわかるなぁって感じる。

たぶん、読解にはこれを一つの例とするような誤読や見落としの傾向がある。「読解」の範囲を日常的な話し言葉の遣り取りにまで広げれば、チャルディーニの『影響力の武器』なんかでも読めばウヂャウヂャ似たような話がある。書き言葉にだってあっても全然おかしくないだろう。

で、ひょっとして SCIgenには、そういうヒトの誤読傾向を活用したプログラムになっていやしないかしら、みたいなことを妄想したのだ。で、はてブのコメントに《おもしろーいーぃ》なんぞと書きもしたのだった。実際のところ、どうなんだろう?


で、この手のヒトの誤読傾向の学術的研究って絶対日本でだって行われていると思うんだけれど、そこいらへんを利用した「文章の書き方」なんぞ出版すると詐欺師的行為を推奨するみたいになっちゃうからダメダメだとして、そういうのに注意しつつクリティカル・リーディングの方法なんかを教えてくれる読解入門本なんてなのは企画としてどうかしら?

以前、「生産財としての読む技術」(吉岡友治の三日坊主通信) はてなブックマーク - 吉岡友治の三日坊主通信: 生産財としての読む技術を紹介したの、覚えていてくださってる方、いないかなぁ。

この頃「文章ブーム」らしい。そのせいだろうか「文章を書く」方の企画は、どんどん通って困るぐらい。私も来年は教育もの、論文術、反論術、など、あれこれ書かねばならないものが山積み。かなり忙しい。でも「文章を読む」方の企画は、いくつも出しているのだが、なかなか通らない。

なぜか? 編集者に言わせると「読解力では売れない」からだ。「自分が読解ができないと思っている人が本を買うわけがないでしょう。書くのなら、別だけど」。…一理ある。読者とは、本を読もうという人なのだから、自分で一応読む力はある、と思っている。そんな人に「読解力を向上させましょう」と言っても、ピンと来ない。読者心理としては、たしかにありそうだ。

というお話。

ただ生真面目に読解の話をしてもウケないとすれば、そこに雑談的小ネタとして、ヒトのオバカさんな誤読傾向を織り込みつつ話を展開するというのはどうか。

日本の、だれがどこで誤読研究をなさっているかなんぞはトンと知らないけれど、そういう方と読解本の著者がタッグを組んだ対談あたりは雑誌企画としてもあって良さそうぢゃないかしら。


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  • 注1 というか、記事はきわめて大雑把なもので、たとえば 《ソーカル事件との比較は失当ではないか?"学術会議に投稿"とあるので、厳しい査読のないいわゆる conference paper なのかも。記事の範囲内ではいまいち状況がよくわからない》(某さんのブコメ。2015年10月22日現在では確認できず、撤回されたみたいなのでお名前は秘す)というような見方が出て来るのももっともだと思う。記事の翻訳も何となくこの領域にどの程度通じているのかわかんない感触のある質のものだしぃ。ただし、記事には《ラベー氏は今回の詐欺行為によって、査読審査システムの信頼性が打ち砕かれたと指摘する》なんぞという話もご登場遊ばして、どうもすっきりしない。記事自体がコンピュータの自動生成でできちゃったものだったりして(^_^;)
  • 注2 普通「学術会議」と日本語で書かれていれば、オツムに思い浮かぶのは「日本学術会議」のことだろう。cf. 「学術会議 とは」(コトバンク) はてなブックマーク - 学術会議(ガクジュツカイギ)とは - コトバンク。単に学会か何かのことなのだろうか。学会が日本のそれと似たようなものなら受理されても何の不思議もないような気がしないでもない。このへんは、「色物科学者研究編」 はてなブックマーク - 色物科学者研究編など熟読されたし。
  • 注3 ご謙遜もあろうかとは思うのだけれど、、、。
  • 注4 といっても実際に1000とか10000とかもの書き込みを見たわけぢゃないけど\(^o^)/

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