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最終更新日時 : 2015-11-28 21:18:20  
20130221114731

「状況」もちゃんとお知らせ願えるとありがたいんだがなぁ。人類は一体何を考えているのか、しょっちゅうわかんなくなっちゃうよぉ。ぶー。


ついつい分かった気になっちゃう「違い」

日本語の「わかる」は、「分ける」に由来するという話がある。その真偽は知らないけれど、まぁ「わかる」といえば「違いがわかる男」ってなもんで、違いがわかるってのは何となくエラそうでもある。しかし、ひょっとするとありもしない違いがわかっちゃうのが僕たちの避けがたい思考の癖だとすると、はてさて、インスタントコーヒーに何を選ぶべきか、迷いが生じてきてしまうのもやむを得ぬところだ。


「論文査読者は特定の研究成果に好意的になりがち?」(英文校正エナゴの学術論文ブログ) はてなブックマーク - 論文査読者は特定の研究成果に好意的になりがち? « 論文執筆や学術的出版、ジャーナル選択や投稿手続きにおける日本人研究者のためのコツ | 英文校正エナゴの学術論文ブログ、内容は極めて興味深い割に、現在はてなのブックマークでは4userからしかチェックが入っていない*1。「英文校正」とか「学術論文」といったブログ名に割り込んだ単語のせいなのかなぁ。しかし、これは少なくとも2桁ユーザくらいから注目されるべき話、注目寒気、は、ようやく峠を超すらしいけれど、そうぢゃなくて、注目換気もしたほうがいいんだけれど、そうぢゃなくて注目喚起的な意味でちょっと。

エントリは、《AとBが同じである》と語る論文よりも《AとBは異なる》と語る論文のほうが高く評価される傾向があるという話。しかも、優れた査読者であってもそうした傾向からは逃れられないというんだからなぁ。うーん。以下引用は、2009年に Natureで取り上げられた研究の結果だそうな。

この実験では、まったく同じ論文の結果だけを「AよりBが優れている」としたバージョンと「AとBは同じだ」としたバージョンの二種類を作成し、複数の人に査読してもらいました。ここで注目したいのが、その論文の実験方法には、いくつかの小さな課題やミスが含まれていたということです。査読者は、このミスに気がついたでしょうか?

「AとBは同じだ」という結果の論文を読んだ人達は、期待通りに実験方法の小さなミスや課題に気がつき、色々な改正案を提案しました。ところが、同等に優れた査読者であるはずなのに、「AよりBが優れている」という結果の論文を読んだ人達は、これらのミスや課題にまったく気がつかなかったのです。つまり、査読者も人間。「物事の違い」をよしとし、鵜呑みにする傾向があるということになります。

詳細はわかんないけれど、こういう傾向が、客観的実証的、そして論理的思考の訓練を、僕たち一般人よりは遥かに積んでいることが期待されるヒトたちにおいてさえ共通して見られるとすると、たぶん僕たち一般人にはなお一層強く見られるんぢゃないかって気になる。もしそうだとすると、この傾向を自覚してかからないと、割と簡単に誤った判断を犯すことになりかねないってことぢゃないか。

たとえば現代文なんかの受験勉強で、評論の読解に際して文中に登場する対比・対立の関係とか二項対立とかに気をつけなきゃいけないってなことを叩き込まれたヒトも多いと思う。あれも要するに《AとBは異なる》ってパタンで組み立てられた文章が多いからだ。云ってる内容が正しいかどうかはさておき、そういう組み立てを持った文章は、何となくもっともらしく見え、少なくとも出題者さんの頭には説得力のあるものと見えるってことなんだろう*2

あるいは、小論文なんかでも少なくとも模試レヴェルであれば、主題が抱え持つ2つの性格矛盾を指摘しつつそういう矛盾を抱え込んだダイナミックななんとかかんとかと論考をまとめるとほぼ確実に成績が上がる。たとえば、《文芸批評は、一方で作品への愛に貫かれていなければならず、また他方で主観を離れて冷静沈着に作品を解剖する手腕を持たなければならない。つまり、パトスとロゴスの矛盾を孕むダイナミックでパラドキシカルな営みなのであーる》みたいなことを書いておけば、模試の採点者レヴェルならたいていイチコロだとかいうふうな具合。他にも「違い」を利用する読者たぶらかしの手口はいくらでもある。

そんなこんなで、《AとBは異なる》という対比的な思考は大切なものではあるんだけれど*3 、このタイプの文章、その具体的な内実以上の説得力を世の中で発揮しているってことは、実際結構あるんぢゃないかな*4


そんなこんなを考えていると、論理心理学ってなのはないのかしら、というようなことが気になって来る。以前 『影響力の武器』 を取り上げて、いかにヒトが非論理的にものごとを捉え、考えてしまうかを紹介したことがある。他にもいろいろあったような気がするけれど、まぁ細かいことはどうでもよろしい *5。何にしてもヒトは冷静に論理的に実証的にモノを見、考えているつもりであるその最中においてさえ、心理的なバイアスみたいなものに左右されて結論を出しちゃうものなのだ。

で、そういうことを考えると、ひと通りの論理的な読み書きが大切なのはいうまでもないとして、論理的な読み書きをめぐる心理学みたいなものをじっくり考えてみないと、論理的な読み書きの習得なんてなものは実のあるものにならないんぢゃないか。こういう話って、考えてみるとウェイソンの4枚カードの実験を取り上げたときにもしたっけかなぁ、とにかくヒトが判断を迫られる現実的な場面においても論理的な判断が下せるようになるためには、いろいろ面倒な径庭を経なければならないってあたり、結構考えられることの少ないその手の教育における盲点になっていそうだよなぁ。なんとなく、古代ギリシアにおいて論理学が修辞学の下位に置かれるものだった理由も仄見えてくるような気がしてくるが、そこいらへん、迂闊にしゃべるとまだ大言壮語にしかならんか。うーん。


影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか
ロバート・B・チャルディーニ
誠信書房
売り上げランキング: 506

僕自身は第二版しか読んでいないのだけれど。第三版も悪い評判を今のところ耳にしたことがないから、たぶん相変わらず興味深い本になっているんだろうと思う。読めば、己の理性的な判断への懐疑なしにものを考えるってなのは、野蛮なことだとすら思えてくるだろう。ってなわけで、現代人必読といっていいんぢゃないかなぁ。


  • 注1復旧時註:user数は復旧に際して書き改めていない。ということはつまり2013年から全然ブクマの数は増えていないということ。うーん、本エントリは注目喚起に全然役立たなかったということなのかなぁ。がっかりである。それとも、こういうことはすでに常識化していて、単に「与太」やリンク先ブログさんの無知を曝け出しているだけなんだろうか。そんなことないと思うんだがなぁ。うーん、うーん。
  • 注2 もちろん、現代文で課される文章は明晰な文章であるとはかぎらない。むしろ、多少は悪文が選ばれることも珍しくない。落とすための試験を考えちゃうとどうしてもそういう選択になるんだろう。でも、内容まで出題者がまったく承服できないと考えているものが選ばれているとは考えにくい。
  • 注3cf. 「比較対照ってやっぱ重要だと思うなぁ」 はてなブックマーク - 別冊 日々の与太 » 比較対照ってやっぱ重要だと思うなぁ
  • 注4 さらにいえば、昨今世間様を跋扈している対立を煽るような言説みたいなものだって、実はこういうヒトの読解傾向ゆえに過剰にもてはやされているといったことだって考えられるかもしれない。あんまり大風呂敷を拡げるのもアレだけれど。
  • 注5cf. 「正確であること、論理的であること、実証的であることが至上目的なわけぢゃぁない、よねぇ?」 はてなブックマーク - 別冊 日々の与太 » 正確であること、論理的であること、実証的であることが至上目的なわけぢゃぁない、よねぇ?「その『わかりやすさ』、ちょっと疑ってみよう」 はてなブックマーク - 別冊 日々の与太 » その「わかりやすさ」、ちょっと疑ってみよう


最終更新日時 : 2015-08-11 14:11:34  

わかりやすい文章って、考えてみるとすごくむずかしい。知ったかぶりのために難しげな言葉を濫用するのは論外に決まってる。でもね、ってことはやっぱりある。ちゃんと事実を指摘して、理路もしっかり通っているってことはもちろん大切に決まってる。でも、それだけぢゃぁ、ヒトを説き伏せられないってことはザラだ。さて、どうすればいいんだろう。どうしたって、状況を的確に捉え、目的にふさわしい言葉を考えるってあたりが欠かせないんだろうな。という、まとめてみると毒にも薬にもならん当たり前のお話。


わかりやすさのわかりにくさ

文章を書くとき、たいていの場合、話を伝えたい相手がいる。その相手にどうしてほしくて文章を書くのか。その目的を冷静に考えるとき、どう書けばいいのかが見えてくる。あるいはなかなか見えては来ずに紛糾する。伝えたいことを論理的にわかりやすく書く。それだけで用が済んでしまうこともあるけれど、現実にはなかなかそううまくはいかない。そもそも、わかりやすく書くというのが大問題なんだもん。

そういうことを考えさせてくれるのが、「専門家と素人のあいだに」(とらねこ日誌) だ。「福岡伸一の幻想を破壊してみた」(ならなしとり) とそれに対する批判をめぐって書かれたエントリ。乱暴を承知の上で思い切ってまとめてしまうと、わかりやすい表現には、しばしば誤解が生じるが、肝心の内容の伝達のためには少々の誤解に目をつぶることがあってもいいのではないかという話。専門家には前提としてある知識が、読み手の素人にはない。だから、そういう知識をちょいと脇において、伝えたい部分をとくに重視してわかりやすい文面を作り上げることも出てくる。どうしたって話の内容には不正確なところが割り込んでくる。そうなると他の専門知識の持ち主から批判を浴びることになる。でも、状況によっては、そういう批判を抑えることが重要なことだってあるんぢゃぁないか。そういう話だ。僕はどらねこさんの遠慮がちな主張にほとんど賛成だなぁ。

「わかりやすい」というあり方自体、実は一般に思われているほどわかりやすいものではない。難解で複雑なものを平易で単純なものに置き換えればわかりやすくなる、なんて呑気な話では済まない面倒があるんだもん。不正確になるのを承知でいえば(^_^;、コンピュータプログラムのソースコードのことを考えるとわかりやすいかも。C言語か何かで書かれたソースコードはわかりにくい。だからもっと単純な機械語でそいつを表現してみたらどうか。何しろオンとオフ、0と1しかないのだから、これほど単純なことはない。ぢゃぁその機械語で書かれたコード全体がわかりやすいかといえば、もちろんそうは問屋が卸さない。そんなもん、たいていの人類は読まないに決まってる。難解な概念をわかりやすい単純な言葉で正確に解いてみると、むやみに長い説明になっちゃうものだ。当然のことながら、正確さを保とうとすればどうしたって文章全体が長くなる。長くなると、なかなか読んでほしいヒトに読んでもらえないという、文章にとっての致命的な危険もついでに生じることになる。あちゃー\(^O^)/。というわけだ。

手際よくサクっと読んでもらって、肝心の点だけは何とか伝える。そういうことを考えると、どうしてもアナロジー、要するに譬え話を使うことになる。新しい知識を身につけるとき、ヒトはすでに自分の生活経験で馴染んだ知識と結びつけて新知識を消化しようとする。だから、比較的よく知られている何かに、したい話の構造的な類似を見出して、適当な譬え話をこしらえる。もちろん、本来の話を別の話に置き換えての説明になるんだもん、そこに不正確が割り込むのは、むしろ当然ということになる。話の目的と、そこで要求される正確さのバランスを考えて、言葉のピントの絞り込みを考えるより仕方がない。だから、そういう場合の批判は、ただ不正確だというのではなくて、話の本来の目的に対して正確さが足りているかどうかを考えた上でなされなければならないってことだろう。


ヒトはあんまり理性的ぢゃないかも

おまけに、ヒトは理性のみで物事を判断しない。感性、感情に流されちゃうことだってある。でも、最も面倒臭いのは、ヒトの、ほとんど自動化してしまった無意識のうちに働く判断だろう。そいつの力を考えないと、理を尽くしたメッセージがまったく逆効果になってしまうことだってある。そいつのせいで、論理的で実証的でついでに正確でわかりやすい言葉だけでは目的を達成できないことだって結構多いのだ。

最近あちらこちらのブログで取りあげられている本に、ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器』(誠信書房)がある。たしかに、交渉やセールスを思うように展開したいってヒトたちには有益なものだから、評判になるのも当然なのだろう。けれど、読んでいるとあんまりに非理性的なヒトの判断と行動にいささか憂鬱になりもするのだ。まぁったく、どこがホモ・サピエンス、理性のヒトなんだよぉ。

たとえば、第三章「コミットメントと一貫性」。筆者と同僚の論理学者は、超越瞑想プログラムの勧誘講座を覗きにゆく。友人の論理学者は、そこの指導者を聴衆の前で徹底的に論難論破し、指導者たちも議論の敗北を認めてしまう。

しかし、私にとってもっと興味深かったのは他の聴衆に対する効果でした。質疑応答の後、二人の勧誘者に対してTMプログラムの参加費の頭金75ドル*1を支払おうとする人が数多くいたのです。彼らが支払おうとすると、勧誘者は互いに肘をつつきあったり、肩をすくめたり、ほくそ笑んだりして、当惑を示しました。彼らの議論はきまりが悪いくらいにはっきりと粉砕されてしまったように見えたのに、その後、どういうわけか嘲笑から不可解なほど多くの承諾を引き出し、会合は成功へと転じてしまったのです。相当奇妙なことに思えましたが、同僚の話の論理を理解できなかったために彼らがこういう反応をしたのだろうと私は考えました。しかし、実際はまったく逆であったことが判明しました。

(中 略)

同僚の論理学者の指摘を理解していないために申し込みをしたに違いない、私はまだそう考えていましたので、彼の議論のいくつかの点について(引用者注:申し込みをした人たちに)質問を始めました。驚いたことに、彼らは同僚のコメントをとてもよく理解していました。実際のところ、完璧に理解していたのです。まさに同僚の議論の説得力こそが、彼らをその場で申し込む気にさせたのです。私的な団体のスポークスマンが、その経緯を最も的確に話してくれました。「僕は今夜はお金を払うつもりはなかったんだ。今、本当に文無しに近い状態だからね。だから、次の会合まで待つつもりだったんだ。だけど、君の友人が話し始めたとき、お金をすぐに払った方がいいと思った。そうしなければ、家に帰って彼の言ったことをまた考え始めてしまって、そうしたらもう決して*2申込まなくなるって思ったんだ」。

pp.106-8*3

何だか変な話なのだけれど、切実に救いを求めているヒトは、むしろ理性的な言葉から逃れてでも救いにすがりつこうとするらしい。いったんすがりつこうと決めかけた一貫性を保とうとするんだそうな。「トンデモ」にハマリそうになっているヒトには、理を尽くした言葉がまったく無力だってこともあるのだ。こちら側に引き戻すためには、どんな言葉を用意すればいいのだろう?

この本には、さらに『影響力の武器 実践編』なんていう続編がある。そこではさらにヒトの非理性的としかいいようのない話がてんこ盛りで登場する。たとえば……。

社会的証明のネガティブな効果を調べるために(同時に、もっと効果的なメッセージを作れないか探るために)、われわれの研究者チームは化石の森国立公園から木が盗まれるのを防ぐための看板を2種類用意しました。一つはネガティブな社会的証明の看板で、「これまでに公園を訪れた多くの人が化石木を持ち出したため、化石の森の環境が変わってしまいました」という台詞に、木を持ち出そうとしている数人の来訪者の写真を組み合わせました。もう一方の看板には社会的証明を示す情報は入れず、ただ「公園から化石木を持ち出すことをやめてください。化石の森の環境を守るためです」という台詞に一人の来訪者が化石木を取ろうとしている写真を添え、さらにその人物の手の部分に赤い丸に斜めの斜線が引かれた「禁止」マーク*4を描きました。また、比較対象とするために、どちらの看板も設置しない対照群も設定しました。

そうして来訪者に知られないように園内の遊歩道に印を付けた化石木のかけらを置き、さらに遊歩道ごとに入口に立てる看板を変えました(看板なしの入り口もあり)。この方法で、看板の違いが持ち出し行為にどう影響するかを調べることができました。

その結果は、国立公園の管理者を化石にしてしまうぐらいショッキングなものでした。なんとネガティブな社会的証明メッセージの看板が立てられていた遊歩道は、どちらの看板も立てなかった対照群(盗まれた化石木は2.92パーセント)よりも、ほぼ3倍も盗まれた数が多かったのです(7.92パーセント)。これでは犯罪防止どころか犯罪助長対策です。それにひきかえ、単に化石木を持ち出さないよう訴えたメッセージは、対照群よりやや低い数字(1.67パーセント)になりました。

pp.13-4

「社会的証明」というのは、多数の人間が行動なり品物なりを選んでいることがはっきりしている(と思える)こと。つまり、上の話では、「化石木を盗んぢゃうヒトが多い」という看板は、本来化石木盗難防止のためのものであるはずなのだけれど、同時にそういうヒトが多いっていう「社会的証明」をもたらす情報になっちゃっているというのだ。多くのヒトがやっているという情報は、その善し悪しにかかわらずヒトの行動を左右してしまう。しかも、実はこの社会的証明に左右される判断というのは無自覚なものらしい。『実践編』では、ミルグラムの実験を取り上げて、

社会心理学の研究には、人の行動に影響を与える社会的証明の威力を示すものがたくさんありますが、そのひとつに、スタンレー・ミルグラムのグループが行った実験があります。まず一人の研究助手がニューヨークの雑踏でふいに立ち止まり、60秒間空を眺め続けます。ほとんどの通行人は彼が何を見ているのか気にも留めず、除けて通っていきます。ところが、空を眺める助手の数を4人増やしたところ、一緒になって空を見上げる通行人の数が4倍にふくれあがったのです。

このように、他人の行動が、社会的影響の強力な要素であることにもう疑いの余地はありません。しかし、ここで注目してもらいたいのは、研究の対象とされた人に、「あなたの行動は他人の行動に左右されますか」と尋ねると、皆、絶対にそんなことはないと言い張ることです。実験に携わっている社会心理学者の間ではすでに有名な事ですが、人は何が自分の行動に影響を与えているのかを自分ではほとんど認識できていません。……

p.3

という。

ちょっと考えてみればわかることだけれど、「最近、××が増えている。困ったもんだぜぃ」って形のメッセージって、世の中に満ち満ちているっていってもいいくらい。さすがに最近多少は下火になったかもしれないけれど、「少年犯罪が増えている。近頃のガキどもには困ったもんだぜ」みたいなヤツ(まぁコイツは明らかな事実誤認なんだもんなぁ)。もちろん、そういうメッセージは、××がますます増えればいいと考えて発せられたわけではないだろう。でも、そういうメッセージが現実にはどんな影響を与えるのかを考えたとき、仮に「増えている」ことが事実だとしてもあんまり声高に喧伝するのは賢明を欠くということになるってことになるかも。むしろ、そういうメッセージの看板を下ろしてしまったほうが、いっそ社会のためなのかも。そういうアレって、いろいろあるでしょ? 変な社会的証明に加担しないように、ここでは例挙を控えておくけれどぉ。

まぁ『影響力の武器』とその実践編にはその他あれこれ、この手の話が満載で、武器ってよりも「影響力の罠」といったほうがいいんぢゃないかって気がしてくる。うーん。


言葉を発する目的を考えなきゃね

というわけで、ヒトを動かすためには、正確さ、論理性、実証性を確保しさえすればいいとは限らないってことになりはしないだろうか。何も不正確で非合理的で無根拠な話がすばらしいってことを云いたいわけぢゃぁない。ここまで読んでくださった方なら、それくらいのことはお分かりいただけると思う。

文章を書く、ヒトと話をする、そういうとき、だれを相手にしているのか、何を目的にしているのか、どんな状況におかれているのか、そこいらへんに思いをめぐらしたうえで言葉の組み立てを考える必要がある。とにかく特定のこいつをとにかく頭に入れてほしいってときには、正確さをある程度犠牲にせざるを得ないことも出てくるかもしれない。あるいは、何とか特定の行動を促そう/止めようとするなら、理屈と実証だけでは済まないケースだってあるに違いない。そういうことをよくよく意識しておかないと、どこぞの文章講座の売り文句みたいな「わかりやすくて論理的な文章はだれでも書ける」といったお話も、それ自体何の役にも立たないってことになっちゃう、のかもしれない。よっく考えなきゃいけないことだな。ここいらへん。

とまとめると、いささかならず当たり前にすぎる結論になっちゃうんだがぁ\(^O^)/


影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか
ロバート・B・チャルディーニ
誠信書房
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このエントリを書いたときには第二版が最新だった。本書の人気は相当なものだってことなんだろうなぁ。『影響力の武器 コミック版』なんてなのも誠信書房から出ている。僕は未見。カスタマーレビューを見るかぎり今一つみたいだけれど。


影響力の武器 実践編―「イエス!」を引き出す50の秘訣
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戦前の少年犯罪
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少年犯罪って実は……ってあたり、これを読むとうんざりするほどよくわかる。「昔は良かった」批判って、これ以前からもなかったわけではないけれど、本書刊行以降、グッと増えたような。


サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
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サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)
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「実験に携わっている社会心理学者の間ではすでに有名な事ですが、人は何が自分の行動に影響を与えているのかを自分ではほとんど認識できていません」ってなあたりを知るには、下條信輔のサブリミナルものも打ってつけ。

『~マインド』のほうは、Kindle版も出ている。


  • 注1原文縦書き漢数字。以下同様。
  • 注2強調、原文では傍点。以下同様。
  • 注3 『武器』第2版。以下同様。第3版との異同は未確認。
  • 注4記号省略。


最終更新日時 : 2015-08-10 23:57:30  

「わかりやすさ」の大切さなど今さら繰り返す必要はないのかもしれない。でも、どのようなやり方でどんな「わかりやすさ」が生まれているかはよくよく考えたほうがいい。とくに書く側ではなく読む側、話す側ではなく聞く側の立場を考えたときには。

「わかりやすい」マニュアルの話

そんなことを考え込ませてくれるのが、「ユーザサポートでめちゃくちゃ感謝された経験について話す」(はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記) というエントリだ。

書き手氏が企画したモデムは、野暮な段ボール梱包の他社製品と異なり、「カラフルな化粧箱」をパッケージにしたことで大売れする。しかし、添付されていたマニュアルはいかにも貧弱だったために、売れ始めてから電話によるクレームが殺到したという。そこで書き手氏は一計を案じる。

サポート電話がつながらないという販売店からの苦情をきいた社長が僕の机まで飛んできて怒鳴りつけられた*1。4人全員で電話を受けろ、サポート時間を延長して残業してでもできるかぎりの電話を捌け、それが客に対する誠意だ、と叱責された。そんなに激怒した社長を見るのは初めてだった。

いや、ぶっちゃけそこまでやっても無駄ですからやりませんと僕は初めて社長と喧嘩をした。強引に社長の指示を拒否して、ぼくがやったのはマニュアルのつくりなおしだった。サポートを1回線にしたことで浮いたスタッフひとりといっしょにわかりやすくてカラフルなマニュアルを大急ぎでつくりなおして登録ユーザ全員に発送した。また、それだけでは不十分だと考えて、当時、でたばかりのショックウェーブをつかって、音声と写真でモデムの接続と設定をナビゲーションしてくれるマルチメディアマニュアルをつくってユーザへ無料配布するCDROMに同梱した。

結果、どうなったかというと、配布して直後に大量の感謝の手紙がサポートセンターに届き始めた。買ったあとにもサポートされるなんて思ってもみなかった。パソコンを買って、こんなに親切な対応をしてもらったのは、はじめてだ。自分みたいな初心者にも本当にわかりやすいマニュアルでありがとうございます。など。

そしてサポートにかかってくる電話も急激に減り、たまにかかってきた電話も、みんな恐縮した電話ばかりになった。こんなに丁寧なマニュアルがついているのに、つかえないのは自分が悪いんだと思っているからだ。

実際には当時としては画期的にわかりやすいようにみえるマルチメディアマニュアルもケーブルをつなぐところをコネクタの写真から説明するあたりは衝撃的にわかりやすいが、Windowsの設定になるとやっぱりわかりずらく*2自動とはいいがたいつかいずらさだったんだけど、そのことも初心者のユーザには判別できない。だから、設定できないのは自分が悪いせいだと思いこんでメーカーへの不満は生まれない。

強調、引用者

売り出す立場からすれば、なるほどこれは真似してみようと思える話なのかもしれない。しかし、消費者の立場からするとどうだろう。余計なギミックに誤魔化されていたということになりやしないか。知らぬが仏のおまぬけってことになっちゃいやしないか。


狐博士の陰謀

実は、こういう余計なギミックによって「わかりやすさ」、少なくとも受け手が感じるわかりやすさの印象が増してしまうという話はいろいろあるのだ。たとえば、Dr. Fox effect[ググる!]*3

大学生を相手に、一つのクラスでは、内容は支離滅裂、しかし話術、非言語的メッセージは巧みに、俳優が扮するドクター・フォックス(キツネ博士)氏が講義します。別のクラスでは、理路整然と、しかし話術、非言語的メッセージは控えめにしたドクター・ジャパン氏が講義します。講義終了後に、学生にそれぞれの先生の授業を評価してもらいます。

どちらのほうが、いい評価を受けたと思いますか。

ドクター・フォックス氏のほうです。なんと、内容についての評価点もドクター・ジャパン氏よりよかったのです。これは、ドクター・フォックス効果として知られています。内容さえよければ、発表のしかたはどうでもいいと考えがちな日本人には、ドクター・フォックス効果は教訓的ですね。

ちなみに、授業評価の観点には、内容のよしあし、講義のしかたの巧拙、さらに教師の熱意の三つがあります。ドクター・フォックス効果は、内容だけよくても学生はついてこないという教訓を、教師に投げかけています。

(海保博之『学習力トレーニング』岩波ジュニア新書)

実際の研究には「ドクター・ジャパン」は出て来ないようだけれど(^_^;*4、興味深い話だ。海保の紹介にしたがって考えると、「内容は支離滅裂」であっても、巧みな話術や派手なジェスチャーを駆使すれば、講義の内容についてさえ高い評価が得られてしまう。本当に支離滅裂であったとするなら、学生たちは一体内容の何がわかって高い評価を出したのだろう? 何も理解できたはずはないのに、理解できたと思い込んでしまったのだろうか。それとも先のマニュアルのケースのように、これだけ巧みな話術を介して行われる講義に、理解できないのは自分のせいだと誤って思い込んでしまったのだろうか。

あるいは、これはちょっと何で目にしたのか、記憶があやふやなんだけれど、ウェブページの場合。テキストとはほとんど関係のないものであっても、画像が適宜配置されたページのほうが、わかりやすい、理解しやすいとの印象を抱くユーザが多いなんて話もあるみたいだ。僕たちがついつい見てしまう有名ブログのあれこれを思い浮かべてみると、たしかに内容とは直接の関係はないけれど、ちょっとしゃれた写真画像がそれとなくエントリに添えられているところって結構あるよなぁ。あれはわかりやすいという印象を醸し出すために用いられているんだろうか。


「わかりやすさ」を疑え

このように見てみると、書き手・話し手の側から見た場合と読み手・聞き手の側から見た場合でそれぞれに異なった教訓が得られそうだ。

書き手・話し手側にとっては、受け手に提示するコンテンツはそのコンテンツの充実のみではなく、提示の仕方そのものにも工夫を凝らすことでより効果的に受け手に受け止められるという教訓。

そして、たぶんこちらがより一層重要になってくると思うのだけれど、読み手・聞き手の側からすれば、わかりやすいと思えた話であっても、それが本当に理解できたのかどうか、一度自分の頭で理路を確認し直すことが必要だという教訓だ。

学校時代であれば、学習した内容を復習するということもあったかもしれない。ちゃんと復習するのであれば、狐博士につままれたまんまってことも避けられるかも。でも、社会に出てからはどうだろう? 読んだ内容は読みっぱなし、何となくわかった印象のままで済ませていたりしないだろうか? そういう状態に甘んじていると、わかったつもりになっただけで、実は狐博士にすっかり化かされていたということになっちゃうのかもしれない。見た目のファッショナブルなところに誤魔化されて、ナンセンスをありがたがるなんていうのも、実はこういうのと似た出来事なのかもしれんよなぁ。


「わかりやすい」話を耳目にしたら、その「わかりやすさ」が話のどういうところに由来するのか、一度は疑ってみる必要がありそうだ。


学習力トレーニング (岩波ジュニア新書 (468))
海保 博之
岩波書店
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最近のライフハック本と比べると地味な内容だけれど、対象読者層が中高生、判型のおかげもあって、どこでもさっさと読めるあたりは悪くないかも。



最終更新日時 : 2015-08-10 22:25:19  

忘れられがちな対照という作業

ものごとを比較して捉えるというのは大事なアプローチ。でも、意外と使いこなしているヒトって少ないんじゃないだろうか。対概念に気をつけて評論を読むなんていうのは、受験国語をクグッた経験のあるヒトなら覚えのあることでしょ。でも、自分で何かについて考え始めるとき、比較対照の作業を試みるってことがパッと頭に浮かんで来ないってヒトも多い。すでに書かれたものについて論じようなんてなときには、そういうことができるヒトでも、目の前に言葉がない場合、つまり造形や映像、音楽を目の前にするとき、そういう発想が出て来ないってこと、多くないかなぁ。

たとえば、次のCMの特徴をまとめるとしたら、どんなふうに考えるだろう?


SONYのCM


もちろん、SONYのCMのみを見てホイホイと言葉が綴れるヒトもいないわけではないと思う。でも書かれたモノを改めて見てみて、すんごく主観的な感想文になってないかなぁ。色トリドリのボールが弾んで楽しいとか、バックで流れる歌がチャーミングとか。別にそれで困るわけでもないって場合も多いとは思う。でも、もちっと自分と趣味の違うヒトにも何がしか通じる言葉を綴りたいってときには、何かと比較して考えるって作業があっていい。

いちばん簡単なのは一般的なCMと比べるというやり方。タレントが出てきて売り込みのメッセージを連呼するという日本ではありふれたCMの作り方とは全然違うことが見えてくるだけでも、特徴説明のための糸口はいろいろ開けてくる。でも、もちっと細かな性格を捉えようと思ったら、具体的な比較対象を見つけてみるといい。


具体的な比較対照を考える

たとえば、次のようなCMと比較してみるとどうだろう?


ToshibaのCM

SONYのもToshibaのも、どちらもLCD、液晶ディスプレイのCMだという点は同じだけれど、ずいぶん趣は違うよね。そういう違いを言葉にしてみると、実はそれぞれの特徴をまとめる手がかりが単独で見ていたときよりずっと捉えやすくなるんぢゃないかしら。たとえば、こんな感じ。


 SONYのCM  ToshibaのCM 
空間 屋外 屋内
時間 直線的 円環的
音楽 生楽器の音、人の声  電子音
メッセージ 自然な色彩 優れた技術

思いつき的に書いたものだけれど、それでも2つのCMの性格がよりはっきりしてきたって感じはするんぢゃないかなぁ。対照的なところを言葉にできると、話はさらに先へ進められる。開放的な印象と閉鎖的な印象は、主観的な感想を超えて、ひょっとするとCM制作者側の狙いの読みにまでつながるかもしれない。

自然光の下、(相対的に見れば)自然なサウンドにのせて、製品の色彩再現をアピールするCMと、技術を駆使した映像と音を用いて、企業のテクノロジーの優越をアピールするCM、みたいなところにまで話を持って行くのもずいぶん易しくなってくるかも。


さらに比較を進めると

さらに異なった製品を扱うCMと比較して考えてみることだってできる。たとえば、次の2つのCMはともに自動車のCM。それぞれにずいぶん印象を異にしているけれど、上のLCDのCMと対照するとまとめて捉えることだってできる。


AudiのCM


HONDAのCM

製品がCMの間中ずっと出ているAudiと、最後の最後まで登場しないHONDA。そういう違いはあるけれど、どちらも視聴者に謎を提示して、想像なり謎解きを誘導するようなところがある。そういうところに目を向ければ、上のSONYとToshibaのCMと比較対照して、自動車のCMが視聴者の、より理知的なところに訴えるのに対して、LCDのCMはより感覚的なところに訴えかけようとしているというふうに見えてくるかもしれない。

もちろん、そうした比較は相対的なものでしかない。ここで取り上げた自動車のCMだって感覚的な愉しみに満ちているし、理知的な発想なしにLCDのCMが作られたなんて絶対に考えられない。だから、これはあくまで相対的な話なのだ。しかし、言葉で事物の絶対的特徴を捉えることができるような詩的言語の達人ならぬ僕らにとって、これは手放せない言葉の使い方だろう。言葉は「ことのは」、事の端に過ぎないともいえる。事そのものにとって代わることができない。だとするなら、相対的な語りにとどまるとしても、せめて事の方へと人の目を向ける力くらいは何とか見出してみたい。そういう意味で比較対照という見方、語り口は単なる技法に留まるものではないかもしれない。


比較して捉えるって、すごく基本的なものの見方の一つだと思う。その割に意識的に比較対照が行われていないってこと、ないだろうか? 少なくとも受験生の小論文なんか見てるとやってねーだろテメーら、と思えることが多いんだよな。課題文読解から意見を起こすときはまぁまぁのヤツでも、写真やヴィデオ、音楽を素材にした、つまり言葉のとっかかりがない問題だと覿面にダメダメになっちゃう.。そういうのを見てるとそう思わざるを得ない。

アートを論じるとき、その歴史を正確に知ることが求められるのも、ただの権威主義やスノビズムなんかぢゃぁなくて、一つの作品に対しての複眼的な比較対照作業が可能になるからだってことがある。知識を動員する論じ方って嫌うヒトも世の中には多いけれど、それにまぁ実際のところスノビズム臭紛々たるアート評も世の中には蔓延ってるかもねと思わないでもないんだけれど、そういう意味では、自分が考察をめぐらせてみたいと考えている領域について、歴史にかぎらず幅広い教養を持つべく心がけることは無意味なことではないんだと思うなぁ。まぁ僕はそこいらへん至って不勉強なんでございますがぁ\(^O^)/


怪獣特撮モノといえば、「~対~」は定番。けれど、2体の怪獣のキャラクタがきれいな対照をなしているケースは案外少ないような気もする。そういう中では、本作、温和vs.凶暴、親人類vs.人喰いというような比較対照の整理がしやすい。しやすいから、というわけではないけれど、当時の怪獣特撮映画としては最も怖かったものの1本に数えていいんぢゃないかしら。今なら『進撃の巨人』の遠いご先祖様とでもいえばいいのかしら。

映画については、「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」(Wikipedia) はてなブックマーク - フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ - Wikipediaなど参照されたし。



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