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最終更新日時 : 2016-05-24 19:21:12  

これ、いったいどうやって使うものなのだろう? 売り物になるくらいなのだから、もちっと使い方がパッと直観的にわかるデザインであって良さそうなもんなんだがなぁ。もう少し引いたところこから眺めれば、見当くらいつくんだろうか。うーん。

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Model from 1870*1

というわけでググって見ると(cf. Hansen Writing Ball[ググる!])、まぁわからないでもないかぁ。いやいや、これはこれでやっぱりわからないぞ。印字メカはとりあえず想像できるとして、インクの供給はどうなっているんだ。ウィキpなど見ていると、その後、多少はポータブルなマシンへとデザインは変化を遂げていくのだけれど、やっぱりインク供給のメカがパッと見ではわからない。

とはいえ、どうもこのライティング・ボール、欧米でそれなりの成功を収めたらしい。後継機種ではあるけれど、「Friedrich Nietzsche's typewriter」(The International Rasmus Malling-Hansen Society) はてなブックマーク - The International Rasmus Malling-Hansen Society: Friedrich Nietzsche's typewriter ----free download----ってな具合で、ニーチェ先生もご愛用とか何とかなのだそうな。

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A sample from a letter written by Rasmus Malling-Hansen*2

謎なのは文書の見た目の若干の美しさのためにだけ、こういうマシンは求められるものなのだろうかというあたり。右の写真など見ると、Hansenのライティング・ボールは大文字しか印字できなかったみたいぢゃないか。そのくせ、上のマシンの全体図を見ると、ちょっとした手紙を書くって程度の用途にならば、扱い具合、面倒臭いにもほどがあるってふうに見える。1870年代半ばあたりに登場する Remington のタイプライタだって大仰なシロモノには違いないのだけれど、書く手間に関しては、その後のタイプライタにかなり肉薄したというかほとんど変わりのないものになっていたはず。

それなりの需要を喚起するような何か、公式文書にまつわる制度の変更とか、そんなものでもあったのかなぁ。ちょいと気になるけれど、調べるとしても手許のアレコレがひと段落ついてからだな、なんだかなかなかつきそうな気配が見えて来ないんだけれど\(^o^)/


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コンピュータ登場以前の書くためのマシンについても若干の言及があったはず。ハイデガーがタイプライタの使える秘書を酷使した話とか^^;。ひょっとしてニーチェ先生についても触れていたかしら。




最終更新日時 : 2015-08-08 23:38:26  
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読点の打ち過ぎには注意!

「読点(、)なしで書いてみる」(FPN)*1『日本語の作文技術』を取り上げながらの表題通りのおもしろい試みが提案されている。

考えてみれば日本語への句読点の導入は近代になってからの出来事にすぎない。「読点」くらい省いても読めなくちゃぁ日本語じゃねーよという発想はあっていいのかもしれない。

記事で紹介されている「まずは読点(、)なしで書く」(発想七日!)も興味深い。ぜひとも一読しておきたい。


というわけで読点なしで書いてみた。


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しかしながら今なら『日本語の作文技術』よりもこちらのほうがお薦めできるのではないかなぁ。


  • 注1 現在リンク切れ。後で紹介する記事も基本的に同趣旨なのでそちらを参照されたし。


最終更新日時 : 2015-08-07 22:12:06  
20150807214548

Norman Kingsley Mailer (January 31, 1923 – November 10, 2007)*1

「When a writer can't find the nuance」(Manage Your Writing)で、先日亡くなった小説家ノーマン・メイラー(Norman Mailer)の言葉が紹介されている。

When a writer can't find the nuance of an experience, he usually loads up with adjectives.

修飾語句の濫用はつとに戒められてきた。でも、形容濫用の問題をテクニックの問題に帰していないところが、さすが作家さんなんだろう。形容詞を使うな、というのではなく、書き手がだめんなっちゃうと形容詞の詰め込みをおっぱじめるもんなんだ、というのだから*2

ところが、エントリの書き手さんは、

Mailer advises well. I overuse adjectives, so his words chastise me. When you next revise something, honor Mailer's memory by looking for ways to replace adjectives, as I tried to do in this post.

なんて云っている。これはメイラーの云い分の正しい受け止め方なんだろうか?

風邪をひけば鼻水が出る。だからといって、鼻水流出を防ぐべく鼻に栓をしたって、風邪が治るわけは当然ない。息が苦しくなるだけだもん。書き手が経験の肌理に鈍感になって作中に形容詞がむやみに増える。だからといって形容詞を減らしてみて、そこに出来するものって何なのだろう。単に形容詞が少ないだけの空疎な文章なのかもよ。形容詞の数を減らしたからって、別に経験のニュアンスがバリバリ見えてくるってわけでもないだろう。もしメイラーの言葉をまじめに受け止めるんなら、形容詞を他の表現で置き換えることよりも先にやるべきことがあるんじゃないかしら。紙の上の辻褄合わせだけでは大いに不足があるのではないかしら。


教訓

気が利いているって感じの言葉は、どうしたって利用したくなる。その時々の話題にも関係するとなればなおさら。でも気の利いた言葉ってカッコいいやつほど意外な棘や迷路を含んでいるものだ。利用する場合にはそれなりの注意が必要だってことになりゃしないかな。

うーん。いやしかし書いてみると、過去、自分の書いたあれこれ、わからんちんなまんま引用した言葉の数々を思い出して、小っ恥ずかしくなって来もする話題だわいな。はれほれ。


おまけ

ワインバーグの文章読本
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11月20日発売だそうだ。洋物の文章術本って、翻訳のせいなのか扱う言葉の違いのせいなのかわからないけれど、どうも当たり外れが大きいって感じ。でも、ワインバーグものとなると、これは気になるなぁ。今どうにもこうにもどん底金欠なので速攻で購入というわけには参らないのだけれど、20日は書店で立ち読みでもしてみるべし。

【追記】 案の定、なかなかの「文章読本」だった。単に紙の上の言葉の問題だけを論ずるのではなくて、書くために必要な態度、生活にまで話が及ぶところ、さすがワインバーグ先生。そういうところでのアレコレがなければ、紙の上の作業だけではどうにもならないという、多くの文章指南書が無視している肝をちゃんと押さえている。


ノーマン・メイラーの翻訳物、もう代表作でさえ新本を入手できない状態になっちゃってるのね。ちょっとびっくり(cf. amazon.co.jpでの「ノーマン・メイラー」検索結果)。



最終更新日時 : 2016-05-09 02:07:36  
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「停まります」か「泊まります」かで悩むヒトは滅多いない

「人力検索はてな」に文章細部の訂正への疑問が登場している。受け応えを見ながら、へぇー、ふーん、っといろいろ考えたのだけれど、こういう細部だけ取り出して訂正の正しさを考えるのって、そもそもどうなんだろう。細かい訂正をさんざに受けた質問者の気持ちはものすごくわかるから、そいつにケチをつけようということじゃないんだけれど。


以下は、とあるウェブでの文章作法を扱った書籍に登場していた話*1

黒い髪の綺麗な女の子にはマーブルオレンジで決まり!!

という例文の「黒い髪の綺麗な女の子」には、

  1. 綺麗な髪を持つ、黒い肌をした少女
  2. 黒い髪をした、綺麗な少女
  3. 綺麗な黒髪を持つ少女
  4. 綺麗な髪を持つ、黒い肌をした女の子供
  5. 黒い髪をした、綺麗な女の子供
  6. 綺麗な黒髪を持つ女の子供

の6通りの解釈ができてしまうから、曖昧でダメダメ表現だといった旨、その本には書いてある。うーん、でも文章の中での具体的な文の布置を考えないと、この手の指摘って文章作成の効率を下げるだけの瑣末主義と考えられないだろうか。「女の子」さえもが2通りに解釈できる曖昧な表現だと云い募るなら、「女の子供」という語句だって同じく2通りに解釈できる表現だ。「女の子供」ではなく「母親の子供」なり「女性であるところの子供」なりにしなきゃぁなるまい。

コンピュータに自然言語処理をさせようとでもいうのであれば考えなければならないあれこれも出てきそうだが、ヒトを相手とするのであれば、この細かさは文章作成のコストを上げるばかりの代物ではないのか。ウェブ上の文章ってことが前提にあるのなら、モデルの「少女」だか「母親に連れられた子供」だかを写真掲載すれば、あるいはイラストの一枚も載せれば、それでかたづく話なんじゃないのか。そちらのほうが一文の細々した訂正なんぞよりいっそ気の利いた対処だろう。

言葉は常にコンテクストにおいてある。「あっ!」という一言でさえ、登校途上の小学生が発したもので、いっしょにいた友人が算数の宿題の話をし始めた途端のセリフだったのだとすれば、これは十中八九、宿題を忘れたな、コイツめ、ってなことがわからないでもない。表現のみ取り出せば曖昧。しかし、傍から見ている他人にもピンとくる、言葉の遣り取りとしてはきわめてわかりやすい言葉、コミュニケーションの場においてはそれなりに正確な言葉といえるんじゃないか。つまり、「正確な曖昧」というものも、コンテクストさえしっかりしていればあるんじゃないか。

そういうことを考えないまま、細部の「正確さ」ばかりを追い求めるというのは、ひどく抽象的な言葉の捉え方だろう。要は日本人の陥りがちな瑣末主義にすぎないのではないか。工学的なマニュアルなんかだとそうも云ってはいられない厳しい事情がありそうだが、そうではない文章にまでむやみに細部の「正確」を求めるとき、何かそういうコミュニケーションの繊細な機微が、かえって見落とされていはしないだろうかしら。

正確な曖昧 (1961年)
正確な曖昧 (1961年)
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藤富 保男
時間社

思潮社現代詩文庫版の『藤富保男詩集』にも収録されていたと思うが、うーん、そちらも現在品切れみたいだ。残念。


  • 注1 書籍全体としてはよくできていたので、ここでは具体的な紹介は控える。

最終更新日時 : 2015-06-13 21:19:25  

当たり前の文章ではない文章、変な文章を書くというのも意外に面倒だったりする。たとえば、ちょっと下の文章を見てほしい。

窓の外では虹色の雨が降っている。天気予報は綿菓子日和のはずだったのに。空気が七色に染まる。レモンやメロン、ソーダ、葡萄、苺味のキャンディ。降っては地べたにたたき付けられ、バチバチと砕かれる。小さな破片は積もっていき、辺り一面を虹色に塗り替えた。きゃらきゃらと飴の声が聞こえてくる。何を話しているのだろう。交ぜてくれるかな。窓辺で彼女らに尋ねる。あなたたちは何処から来て何処へ帰ってゆくの。空気が冷めて凍っていく。大地は色を失い、視界は瞬く間に薄灰に変わった。足元が崩れ、身体は闇に落ちた。

電車の中、向かい側に座る男の子の膝の上に飴入りのガラス瓶が置かれている。嬉しそうに瓶を振ると、光が反射して飴玉がきらめいた。瞬間、反射した飴と脳がリンクして想像力もきらめいた。2秒程で虚構の映像が流れ過ぎていく。

想像力はふとしたことではたらき、その度に空想の世界へ出掛けるのである。機会が訪れればいつでも想像と繋がることが可能なのだ。

僕が担当したものではないのだけれど、美術系予備校のとある授業、400字の「小論文」で「想像力」という主題の下書かれた答案。たぶん、「想像力とは何か」みたいな論文論文したものでは対処のしようがないと踏んで、自分の想像を想像力発揮の実例みたいに扱って話を構成しようとしたんだと思う。字数の制約を考えると、それも悪い戦略ではないと思う。でも仕上がりはといえば、それほど自由に想像を広げて書いたようにはなかなか見えないんじゃないだろうか。仮に自由に想像を広げて書くという場合でも、実は素朴な想像に基づいて言葉を連ねるだけでは「自由」な感じはなかなか得られない。やはり何か言葉の工夫みたいなものが「自由な」感じを構成するのに必要なんじゃないだろうか。

答案としての適切/不適切を離れて、ちょっとそのあたりを考えてみたい。


パッと目につくのは、細かな言葉の選択と組み立て。「虹色」など、率直にいって安っぽい。7色という数も何か色数を問われるとだれもが条件反射的に答えそうに思えなくもない。「綿菓子日和」もそう。少女マンガにだって清原なつの[ググる!]の傑作『ゴジラサンド日和』なんてのがあるくらいなのだ。綿菓子では軟派がすぎるんでないかしらん。想像力を発揮してみせた実例をもって、想像力の説明に代えようと考えたこと自体は悪くないのかもしれない。でも、その中身がだれもが簡単に想起するいわゆる少女趣味的な言葉で綴られているとどうなんだろう。

「綿菓子日和」だと綿菓子+日和であるのに対して『ゴジラサンド日和』なら、ゴジラ+サンド+日和というわけで約1.5倍の発想量が含まれている(^_^;。そういう捻りを考えて使えば、「絶好の綿菓子刑務所慰安会日和」とか? ってこれはイマイチでありますがぁ、仮に少女趣味の通俗的な類型にはまりかねない語彙でも、いくらかは通俗性を免れるんじゃぁないかしら。

それに、キャンディが地面に落ちて砕けるというのは、まんまキャンディ。キャンディを高いところから落とせば、たぶんホントに砕けてしまう。これは特定の現実を頭の中で思い浮かべただけであって、いかにも想像の産物って感じはしない。

でもたとえば、キャンディが地面に接する瞬間に、どろりとスライム状の物体に変化したり、着地する寸前に突然羽毛に変わってまたふわりと上空に舞い上がるとか、着地したとたんにちょうど降り始めた雪みたいに地面に溶け込んでゆくとかすると、まんまじゃないキャンディになる。現実の法則のまんまを想像しても、それは想像力を示す典型的な話にはならないでしょ?

説明の代わりに自分の想像そのものに語らせるというのであれば、想像の典型的な性格をあらわにしてくれるような描き方が必要になってくるんじゃないだろうか。

ここでちょっと思いつき的に、田村隆一[ググる!]の「幻を見る人[ググる!]」の冒頭を引いて見る。

空から小鳥が墜ちてくる
誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
野はある

窓から叫びが聴えてくる
誰もいない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
世界はある

たとえば、「空」と「小鳥」だけならほんわかした牧歌的な感じになってしまう。でもそこに「墜ちる」*1「誰もいない」「射殺」という言葉を持ってきたことで、この冒頭の不吉な迫力は増している。あるいは「誰もいない」んなら「射殺」なんぞホントはできんのに、そいつを無理やりやっちゃうのが詩的想像力だというふう読んでもいい。「墜ちてくる」という垂直に対して、「叫びが聴こえてくる」という水平を組み合わせることで、不吉なイメージがどばぁーっと空間的に広がってゆくという効果もあげている。

ここで学ぶべきものは、要するに一つの雰囲気になじむ言葉ばかりを並べるのではなくて、性格の異なる言葉を配することで言葉には、立体感というかメリハリというか迫力が出てくるということ。色彩でいえば補色の効果みたいなもんかなぁ。

西脇順三郎は「牧場に乳牛がいても詩ではない。乳牛が床屋の中を駆け抜けてゆくと詩になる。花を見て美しいと感じても詩ではない。あれは炭素と水素と酸素の塊だと思いながら眺めると詩になる」といった旨のことを述べている*2。ただ一通りの色調で言葉を組織してしまうのではなく、その色調を裏切る要素を盛り込む、対置する工夫が必要だということだろう。想像したことは想像したままに書く、というのでは、読み手を惹きつける言葉の造形にはならない。意識的な工夫がどうしても必要になってくるというわけだ。


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  • 注1「落ちる」ではなくて「墜落」の「墜」を用いているあたりも効果的じゃないかしら。
  • 注2ここいらへんあやふやな記憶に基づいているので、まんま信用しないでね。でも、「遠いものの連結」といった云い方なら、西脇作品に親しんだ人なら覚えがあるはず。

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