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最終更新日時 : 2016-11-07 03:49:12  

「同性愛の科学者たち:アラン・チューリングからサリー・ライド」(International Business Times 日本版)hatebu、内容はさておき気になったことを一つ。

アーティストで発明家のレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)さんの性的嗜好は、長い論争と投機の対象となってきた。ダ・ヴィンチさんは同時代の人に同性愛者として非難され、彼の遺言により、弟子のフランチェスコ・メルツィ(Francesco Melzi)さんにすべての財産を残した。

ってところでいろいろ違和感。「アーティストで発明家」という形容もそうだけれど、ダ・ヴィンチに「さん」づけってのは初めて目にするんぢゃないだろうか。

後で登場する「チューリングさん」もそうだし、「チャールズ・ダーウィン先生」もそう。うーん。

実を云えば、云わなくても常連諸賢ならばおわかりの通り、ここでだってむやみに「さん」「くん」「先生」づけして、固有名詞はおろか一般普通名詞だって扱っちゃうんだから、お前が云うか、ってなもんなんだけれど、それはもう神棚に上げて拝むとして、というかウチのような弱小ブログが日本語をどう扱ったとしたって世間様には誤差ほどの影響さえないんだから、うっちゃっておいて、ウチなんかよりはずっとオノラブルなメディアさんでの言葉の扱いとしてどうなんだろう、というところは気にならないでもないでしょ?


この記事の訳者さんがどうしてそういう敬称の選択をなさったのか、ひょっとすると、原文にいちいち「Mr.」がつけられていたとか何とかなのかは知らない。

なんとなく僕が妄想しているのは、ひょっとすると訳者さんが、こういう書き方のほうを当然だと考えるヒトなのかもしれないというあたり。小論文初心者さんでも人名に「さん」をつけるヒトがいるからだ。プロの翻訳家さんと入試小論文に取り組む受験生を同じに扱っていいわけはないとも思うのだけれど。

たぶん呼び捨てにすることへの抵抗感もあるんだろうなとは思う。でも、一般的な書き言葉に馴染んだ者の感覚からすると、「さん」付けってなんだか馴れ馴れしく見えて、かえって無礼に感じられるんぢゃないか。ふつうは、引用した記事の見出しだってそうしているように、呼び捨てにするものなのだ。そこいらへん、文章の内容に関わらない瑣末なことだけれど、少なくともレポート、入試の小論文なんかの硬めの書き言葉の場合、人名は呼び捨てにするのがデフォ。これは頭に入れておきたいこと。そんなもんはならわしに過ぎない。ならわしが正してやろう、と考えるのは勝手だが、そいつが然るべき相手に通じる心配はまずない。

と、そんなこんなで、件の記事の文章をひょっとしてチャーミングだと感じたとしても、特別の条件でもつかないかぎり、そういう折には人名に敬称はつけないのがよろしいってことになる。


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暇潰し、雑学ネタに好適。


【お断り】 本復旧記事では、元記事の正確な公開日時の確認が出来なかった。とりあえず話のきっかけとなった「同性愛の科学者たち:アラン・チューリングからサリー・ライド」(International Business Times 日本版)hatebuの翌日とテケトーな時間をもって公開日としたが、実際にはさらに遅れての公開であったような記憶がある。




  

荻窪某所

開いてはみたものの、何の展望も得られない、といったことも世の中にはありふれているもんだよなぁ。うーん。


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小学生時代、英語を教えていただいていたT先生からいただいた、我が人生で数少ない最後まで読み通した洋書である\(^o^)/。しかしまぁ、今やずいぶんな御値段になっているのですね。




最終更新日時 : 2017-01-17 19:10:12  
2010.04.01. 鶯谷

2010.04.01. 鶯谷

鶯谷元三島神社。場所が場所だけに夜中にここで花見をするヒトなど、あまりいらっしゃらないんだろう。この写真では全然雰囲気が出ていないのだけれど、信濃路でひっかけて独りほろ酔い気分で眺めるにはいい桜だ。ぼぉっと眺めてどのくらい過ごしたか、他に訪うヒトもいない。少しばかり怪しい場所にあるというのがかえって花見に好都合ということなのか。

花見のヒトごみも、今は嫌いぢゃぁなくなったけれど、独りで花を眺めるというのは、いいよなぁ、やっぱり。


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最終更新日時 : 2017-04-13 00:32:20  

以下のエントリは、畏友borujiaya(borujiaya | http://www.p-renaissa.jp/borujiaya/ はてなブックマーク - borujiaya | http://www.p-renaissa.jp/borujiaya/)の書いたものである。執筆当時彼自身はブログを持たなかったため、旧「日々の与太」に彼の署名で公開した。今回はシステムの都合で当ブログ管理人の署名での公開となる。

なお、アーレント・オルガンのその後については、「カザルスホール、アーレント・オルガンの現状」(borujiaya) はてなブックマーク - カザルスホール、アーレント・オルガンの現状 | borujiayaが公開されている。併読をお薦めする。

(2015年2015年9月13日)


東京駿河台のカザルスホールは、音楽愛好者ならおそらく一度は足を運んだことがあろう、日本でも指折りのコンサート・ホールである。収容人員はわずか500名、国内発の室内楽専用ホールとして1987年に誕生したこのホールには、これまで国内外の一流の音楽家たちが招かれ、忘れがたい演奏を披露してきた。

そうした名演を支えたのが、このホール特有の透明でつややか、かつ温もりのある音響である。ホール内に張りめぐらされた木製のパネルに響きを染み込ませる設計によって残響を抑え、どの客席からでもクリアで繊細な音を耳にすることができる。ステージ両脇に張り出した二階席からは、聴衆はまるで手の届きそうなところに演奏家の姿を観るとともに、取れたての音を聴くことになる。こうしたコンセプトの小ホールは従来日本に存在せず、ここで演奏した音楽家たちの賞賛が広まるとともに、カザルスホールをお手本とした小ホールが日本各地に作られたほどである。

近代の東京を文化の面から支えてきた風格ある街、御茶ノ水のへそとも言うべき絶妙の位置に、通りを隔てた明治大学リバティ・タワーに代表される、最近の高層建築ラッシュに逆らってひそやかに立つ瀟洒なこのホールが、2010年3月31日を持ってその歴史を閉じようとしている。

リーマンショック後の景気後退、ハコモノから人へという現政権のスローガン、迫られる東京の再開発等々の条件下、さもありなんと肯かれる向きもあろうかと思うが、事はそう単純ではない。

というのは、カザルスホールはそれ自体一つの楽器だからである。

楽器というのは、このホールの明晰で暖かい響きを讃える比喩ではない。1997年にこのホールに設置された、現代を代表するオルガン制作者ユルゲン・アーレントのパイプオルガンが、カザルスホールを離れて存在しえないという事実を指しているのである。

室内楽専用ホールになぜパイプオルガンがあるのかといぶかる人のために、少なくとも三つの事柄を紹介する必要がある。一つはバロック期のオルガンの個性的な響きについて、二つ目はこの響きをを再現するために戦後のヨーロッパ人が払ってきた努力について、そして最後はバロック様式のオルガンを今に甦らせるために果たしたユルゲン・アーレントという名工の業績についてである。

日本でよく見かけるパイプオルガンという楽器に関するステレオタイプの一つは、華麗で荘厳、圧倒的な響きといった印象ではないだろうか。大聖堂の豊かな残響とともに聞かれる、キリスト教音楽文化の一つの典型。響き渡る金属質の高音とブガブガというラッパのような低音。オペラ座の怪人が夜な夜な即興でパッサカリアを奏でる楽器、等々。こうしたイメージは、当然繊細な耳を持った音楽好きを、この楽器から遠ざける契機ともなるだろう。

このようなステレオタイプの要因の一つは、19世紀ヨーロッパにおけるオルガン近代化にある。パイプオルガンの歴史は非常に古く、ルネッサンス音楽発祥の地イタリアの諸都市、ミラノ、ヴェネツィア、ボローニャ、フィレンツェ、シエナ、パドヴァなどには、すでに1400年代からパイプオルガンが存在していたという記録が残されている。16世紀から17世紀にかけて、イタリアだけでなく、イベリア半島、フランス、スイス、オーストリア、ドイツ、ベルギー、オランダ、デンマーク、スカンディナビア半島、イギリス、ロシアなど、ヨーロッパ中にこの楽器は広がっていった。19世紀に入って、規格化された工業製品になってしまう以前のパイプオルガンは、響きの点でその地方特有の個性を持っていただけでなく、ルネッサンス、バロック期の音律(ミーントーンに代表される不均等音律)に従って調律されていた。中世以来、パイプオルガンが教会に設置されるものであり、教会の典礼と切り離せないことは事実だが、たとえば16~17世紀に制作されたイタリアのオルガンの中には片田舎のごく小さな教会のために作られたものも多く、幸いにも現存するそれらの響きを聴くと、素朴な村の人々の、少人数の歌のために設計された楽器であることがよくわかる。大伽藍に朗々と響き渡る音というイメージとはまったく別物である*1

今はオルガンの歴史を述べている場合ではないから、19世紀のオルガン近代化以前のオルガンの特性を簡単にまとめておく。第一に地域の人々の生活に根ざした歌謡性、響き、音律を持っていた(音律が平均律ではないことはもちろん、ピッチについても現代のA=440ヘルツと比べ、半音以上低いものから半音以上高いものまである)。もちろんバチカンのサン・ピエトロ大聖堂やミラノのドゥオーモなどの大オルガンのように、教会の権威を体現するため、はじめから圧倒的な響きを生み出すことを企図した楽器もあった。しかし、ルネッサンス、バロック期のオルガンのすべてが、同じ規模、同じ響き、同じ音律で規格化されていたということではまったくない。

第二に、当時のパイプオルガンは、多少とも名のある工人の設計の下、パイプ、共鳴管、送風機などすべてのパーツが職人の手で作られていた。これは当然と言えば当然だが、楽器を工房でなく工場で作るようになったのが19世紀以降だからである。メカニズムの複雑さから来る工程の多さと煩雑さ、制作に要する費用の高さなどを考慮すれば、安易に比較することはできないが、ルネッサンス、バロック期のパイプオルガンは、それを作った工人の名と不可分であるという点で、ストラディバリウス制作のヴァイオリン、リュッカース一族制作のチェンバロなどと同列に考えるべきである。言い換えれば、当時のオルガンについて、どこかのホールにスタンウェイのピアノを運んできたといった近代以降の発想で考えてはならないということだ。なぜならその楽器は、設計の唯一性という意味だけでなく、パーツの一つ一つがその楽器のために作られているという意味で、世界に一点しかないからである。

以上の二点だけからでも容易にわかっていただける通り、パイプオルガンをめぐる先述のステレオタイプは、近代以降のものである。カザルスホールのような室内楽専用の小ホールにバロック様式のオルガンを設置することは、バロック期のオルガン音楽を往時の響きで再現するために、むしろ不可欠な試みだったわけである。

では本家本元のヨーロッパの人々は、20世紀に入って19世紀のパイプオルガン近代化をどのように見たのだろうか。この点については、SEONレーベル制作による「ヨーロッパの歴史的オルガン」の日本語版ライナーノーツに、植田義子氏によるていねいな解説がある。その記事によって20世紀のオルガン修復の歴史を簡単に紐解こう*2。ヨーロッパで古楽器と古楽の再興運動がはじめて広がったのは1920年代だが、オルガンの分野ではそれより少し前、アルベルト・シュバイツァー(アフリカへの医療の普及で著名な医療者であり、オルガニストでもある)による「工業製品に堕落したロマンティック・オルガンと訣別して、ドイツの伝統的製造法を見直し、そこに立ち帰ろう」という提案の結果、音楽学者、オルガン制作者、オルガニスト等が結集し、長い間忘れられていた古いオルガンの再発見と、それらを手本としたバロック様式のオルガン制作が組織的に行われることになった。これは「ドイツ・オルガン運動」と呼ばれる。

この運動は、バロック期の様式を見直そうという理念の点ではたしかに評価すべき点もあるのだが、当時としてはまだ十分ではないデータから早急に行われたため、特に古いオルガン修復の過程で数々の誤りを犯すことになった。中でも最大の過ちはわざわざ20世紀流のA=440ヘルツのピッチと平均律に調律しなおすために、送風装置やアクション機構を作り変えてしまったことである。

実はこうした「ドイツ・オルガン運動」の過ちを正し、本来のバロック様式のオルガンをはじめて現代に甦らせた人こそが、ユルゲン・アーレントなのである。この間の事情については、前掲の植田義子氏の記述をそのまま引用させていただく。なお植田氏の記述を理解する前提として、1920年代以降、アーレントが登場するまでのオルガン修復では、パイプに送る風圧を低くすることが通例だったことを念頭に置いていただきたい(これは19世紀ロマン派のオルガンの風圧が非常に高かったことへの抵抗も手伝って、バロック時代の家庭用オルガンの低い風圧を参考に、1920年代以降のパイプオルガン修復が行われたことによる)。

たまたま、オランダ、フローニンゲンにある古い大きなオルガンが70mm以上100mmに達する高い風圧である事を知った北ドイツのオストフリースラントに住むユルゲン・アーレントは、1954年に、当時使用不可能になっていたヴェスターフーゼンの教会のオルガンを、この高風圧で修復してみると、どのパイプもはじめて立派に鳴った。この修理の際、当時としては異例の事だが、ピッチも調律法(ミーントーンであった)も、鍵盤の音域も(バス音域はショート・オクターブ)あるがままに手をつけずに、ただ「音が再びなる」ための最小の作業にとどめたら、これ迄の「オルガン運動」のやり方で修復された楽器と全くちがったひびきの楽器がそこに出現した。

(「ヨーロッパの歴史的オルガン第1集・アルプス地方のオルガン」ライナーノーツ(植田義子、1977年))

第二次大戦後、ヨーロッパにおけるオルガン修復運動は、こうして真のステージに入った。周知の通り、1950年代にはルネッサンス、バロック期の音楽を当時の調律と演奏法に忠実に、できる限り当時に近い楽器を用いて再現しようとする古楽復興運動が起こり、アーレントによる古いオルガンの修復とそれらを手本とするバロック様式のオルガン制作は、この運動と同期、共鳴して進行することになるのである。

アーレントが修復したパイプオルガンはヨーロッパ中に広がっているが、ざっと代表的なものをあげれば次の通りである。ハンブルクの聖ヤコビ教会(シュニットガー作の著名なオルガン)、マリーエンハーフェ(北ドイツ)の聖マリア教会、シュターデ(北ドイツ)の聖コスメ教会、リーズム(北ドイツ)の改革派教会、ヴァル・ヴェノスタ(北イタリア)のクールブルク城、アムステルダム旧教会、等々。(ちなみにこれらのオルガンの響きは、SEON、VIVARTEなどのレーベルに録音されたグスタフ・レオンハルトの傑出した演奏で聴くことができる)。

カザルスホールにアーレントのオルガンが設置されたことは、こうした20世紀の古楽再興運動との関連で言えば、まぎれもなく日本の音楽史上の事件であった。この3月23日にカザルスホールで記念講演を行う鈴木雅明氏率いるバッハ・コレギウム・ジャパンの活動に代表される通り、いまや日本の古楽演奏は一定の水準に達している。こうした現代日本の古楽運動の隆盛を支えてきた重要な支柱の一つがカザルスホールであり、このホールのアーレント・オルガンだった。

今回この小文を通して、一介の音楽愛好者に過ぎない私が、音楽関係者、オルガン制作者、新聞社、テレビ局、出版社、大学関係者、文部科学省、音楽文化に関心を寄せる企業をはじめとする関係各位に訴えたいことは、何よりもまずこの楽器が、おおげさでなく人類の共有資産であることを、より多くの人々に知ってもらうべく働きかける必要があるという点である。

などの記事によって、すでに事態の推移は報道されているが、この種の問題は幅広い世論を喚起するものではなく、少数の心ある人々による地道な問題解決への努力が不可欠である。

私は3月22日、椎名雄一郎氏のバッハ演奏をカザルスホールで聴いた。本当に優れた演奏だった。しかし、それだけでなく、このオルガンについていまさらのように驚かされたことがある。この日のプログラムはバッハのコラール編曲11曲、コラール・パルティータ1曲、幻想曲2曲、有名なマニフィカートによるフーガ、そして2曲の前奏曲とフーガを組み合わせた構成であった。「このプログラムの主役はコラール編曲」という椎名氏の考えで、テノールの石川洋人氏のコラール定旋律ソロに続いてオルガン演奏を行い、時にオルガン演奏中のコラール定旋律をテノールがいっしょに歌うという趣向である。石川氏の歌唱が見事だったということももちろんあるが、椎名氏が奏でるアーレント・オルガンは、テノール・ソロを圧することはまったくなく、対等に調和するのである。かと思えば、マニフィカート・フーガやハ長調の前奏曲とフーガでは、鮮烈きわまりない色彩感に富んだ音色を響かせる。しかしこれも大合唱でなく、マドリガーレのような少人数の歌を思わせる、柔らかく、にもかかわらず芯の通った響きである。この音を何としても絶やしてはならないと私は思った。

今WEB上で、カザルスホールのアーレント・オルガンの意義、アーレントの業績、バロック様式のパイプオルガンの個性的な響き、ヨーロッパの100年に渡るオルガン復興の経緯についてまとめて述べた日本語の論考は見当たらない。私のような素人がこうした文章を書くことはおこがましいのだが、少しでも多くの関係者にカザルスホールとアーレント・オルガンの今後について関心を持っていただき、事態の重大性について周知を図るよすがになればと愚考し、今回筆を執らせていただいた。先にあげた二つのWEB上の新聞記事によれば、日本大学の今後の対応は白紙であるという。

そうであるならば、今後の関係者の行動次第で、カザルスホールの保存と運営再開、それが難しいとしても日本大学と専門家によるオルガンの保守管理と定期的なコンサート開催といった善後策を取ることは可能だろう。そうした実りある議論の一つのたたき台としてこの小文を自由に活用していただくことを希望する。そういう用途を意識して書いた文章なので、この文章の再録、複製、抜粋等はすべてご自由に行っていただきたい。

  • 注1 今はSony Music Entertainment傘下に吸収されたSEONという古楽専門レーベルがある。おそらく廃盤かと思うが、1970年代、SEONが「ヨーロッパの歴史的オルガン」というシリーズを、現代を代表するチェンバリストでオルガニスト、グスタフ・レオンハルトの名演で出したことがある。北イタリアから北ドイツに至る16世紀から18世紀の名オルガン、ユルゲン・アーレントらの努力によって往時の響きと音律を取り戻した楽器を用い、全4集にまとめた貴重なアルバムである。その第2集「北イタリアのオルガン」を通して、ブレッシア、サン・ジョゼッペ教会のオルガン(1581年制作)、ブレッシア、サン・カルロ教会のオルガン(1636年制作)、カルピ、サン・ベルナルディーノ教会のオルガン(1669-70年制作)などの素晴らしい響きを聴くことができる。
  • 注2 「ヨーロッパの歴史的オルガン第1集・アルプス地方のオルガン」ライナーノーツ(植田義子、1977年)
  • 注3管理者註:現在リンク切れ。

最終更新日時 : 2015-08-13 14:17:53  

僕らが日常的に耳目にする情報って、そのほとんどがわかりやすいダイジェストにすぎない。何かと忙しい世の中だもん、それは歓迎すべきことではあるのだけれど、一方で僕たちの判断を危ういものにしているんじゃないだろうか。判断が危うくなっているだけでなくて、情報を見る視力だって衰えているのかも。で、この傾向は避けがたいものであって、コイツとの長いお付き合いの仕方について考えとかないとダメなんじゃないか。という面倒臭いお話。


僕はもともとヤマザキパンが苦手なんだけれど……

「パンがカビないのは添加物が入っているから?」(シルフレイのふたり言) 長村洋一「『ヤマザキパンはなぜカビないか』論に見る一般人に対する騙し行為」(PDFファイル) を読みながら、なるほどこれはひどい話だと思いつつも、この程度のガセには、たぶん自分も日常的に騙されているのではないかとも感じた。

話のポイントは、それぞれのエントリタイトルを見れば見当がついちゃうと思うけれど、『ヤマザキパンはなぜカビないか』という書籍には、《ヤマザキパンには防カビ剤が使われていてそのせいでカビないんだ、でもってその防カビ剤ってのは発ガン物質なんだぜ、こわぇー》ってな話が登場するけれど、そいつはガセだぜってところ。どういうふうにガセであるかについては、リンク先を読んでみればわかることだし、さしあたりここでの話のポイントはそこにはないし、まとめなおすのは面倒臭いので(^_^;省く。詳しく知りたい方は、とくに長村氏のアーティクルを読むといい。科学に疎い僕でも、うーん、こいつぁひでーやと唸るに足りる話がていねいに綴られている。あとに書くことになる論旨からして、ここでダイジェストにしてまとめることは控えておくべし、ということにしといたほうがもっともらしいかぁ(^_^;

ヤマザキパンそのものについては、率直なところ自分の口には合わないので、カビ具合の如何にかかわらず積極的に買うことはない*1。でも、この2つの記事が語るところを読むかぎり、エラい言いがかりをつけられたもんだなぁ、といささか同情したくならないでもない。でも、それ以上に気になったのは、仮に科学的思考態度をそこそこ身につけていたとして、こうしたガセにひっかかることなく僕(たぶん「僕ら」としてもいいんじゃないかなぁ)は、日常を送れないのではないかということだ。そして、それはたぶん僕らが日常的に受け止める情報がわかりやすいダイジェストになっていて、そういう情報を受け止めることにすっかり慣れっこになっているからじゃないか。


僕らの情報の受け止め方って……

こういう話はたいがいの場合、まず口コミやブログ、テレビ、雑誌の紹介で僕たちの耳目に触れることになる。話の概要だけが伝わり、「へぇ、××パンって怖いのね」となる。どれほどのヒトが問題となる書籍に目を通すかといえば、結構覚束ないんじゃないかしら。日常的に信頼できるヒトの話だったら、有名ブロガーのエントリだったら、往時と比べれば衰えたとはいえそれでも何がしかの権威を担うメディア経由の話だったら、そういう話を疑ってかかることはないんじゃないかしら。もともと食品の安全性に高い関心があって、ガセの多さにうんざりしているなんてケースででもないかぎり。とりあえず「××パンは危ないみたいだから、今日から◯◯パンを買うことにしよっと」と、採るべき対策もはっきりしていて、詳細情報を求める必要は、少なくとも日常的な行動に関してはなさそうだもん。

さらに、多少関心があって件の書籍に目を通したとして、そこそこの科学的思考態度を持った読者でもではこの「一般人に対する騙し行為」に気づくかどうか。気づかないヒトが結構多いんじゃないかなぁ。こうした一般向けの書籍の場合、多少のデータが登場してくるからといって、研究論文じゃないんだもん、詳細にわたる実験データなんかは掲載されないのが当たり前になっている。結論に直結するヤツだけを簡単に紹介しているだけだ。そういうのすらないのも多い。そういうのが当たり前ってことになってると、ちらりとくらい実験やその結果と解釈に疑問を感じても、まぁたぶんそこいらへんのちゃんとしたところは省略されているんだろうと、ほとんど無意識のうちに善意の解釈を施して読み進めてしまう。とくに件の書籍の場合、著者が国立大学で化学を修めた人物だなんて知ってしまうと、少々のあるべき記述の欠落は煩雑を嫌っての省略のせいだろう。まさか世間様で受け入れられている(かに見える)話だもの、結論そのものには大過ないに違いない。

そんなふうに情報を受け止めることって、僕たちの生活の中ではそう珍しいことではないんじゃないかなぁ。


ダイジェストされた情報こそが求められる

僕たちの生活は、何だかんだいってそれなりに多忙だ。しかもそういう中でより多くの情報を処理することが求められていたりする。そうなってくるといきおいわかりやすい情報に目が向いちゃう。これは仕方のないことでしょ?

たとえば「気象情報」。これなんかわかりやすい情報の典型だと思う。情報の当たり外れに迷惑を被ったからといって、情報を発した予報士さんがどのようなプロセスを経てしかじかの予想をしたか、誤りの因って来たる所以を検証しようなんてヒトはまずいない、んじゃないかな? そんなことができるヒトなら、「気象情報」なんか当てにせず、自ら「気象通報」に耳を傾けて天気図を書いたりしてるんじゃないかなぁ。ほれ、NHK第二でやってる「南鳥島沖、北北東の風、風力3、快晴、1015ヘクトパスカル、気温12度」とか云ってるヤツ。

で、そいつを耳にしながら自分で天気図を書いて天気の先行きを自分で考えるってヒトは、趣味人とか予報士志望者とか漁業関係者とか、割とかぎられているんじゃないかと思う。だって、それなりに多忙な生活を送るたいていの人類にとって、「根室では、西の風、風力5、曇り、997ヘクトパスカル、氷点下4度」とかのんびりアナウンスされたって、そいつをどう活用していいかわかんないし、活用できる能力があったって面倒臭いもん。知りたいのは明日の天気。ほどほどに信用できそうな「気象情報」で間に合わせるのが常識ってことになってる。

一般向け科学書だって、しかじかの研究成果を語るに当たって、その導出されるプロセスを微に入り細を穿つ説明なんかしない。そんなんじゃぁ研究論文読めよって話になっちゃう。紹介されるのは、プロセスの概略だけ。あるいはちょいとおもしろげな思考実験の話や譬え話。プロの目で見ればいろいろ不足があるに違いない内容だって、僕みたいな一般人からすれば煩雑極まりないくらいなんだもん。だから、細かなところは省略されているってのは、こうした書籍を読む際の大前提になってるんじゃない? ツッコミを入れるのが大好きだとかいう趣味のヒト以外にとって、そうした本の記述が大雑把なものになっているというのは半ば常識になってるんじゃないのかなぁ。

裁判に関する報道なんかもそうでしょ? 報道で伝わるのはその概略だけ。傍聴しているとわかる話の細部、証拠の認否をめぐる面倒臭い議論なんか全然伝わってこない。伝えられても読んでる暇なんかないもんね。そういった類の話は、いくらだってある。もう面倒臭いから例は挙げないけど、とにかくそういう情報環境に僕たちはすっかり慣れっこになっているといっていいんじゃないかな。

僕たちの生活は、さまざまな情報によって支えられている。でも、そうした情報は一次資料からは程遠い、多重に解釈加工が施された末にできあがったものだ。その結果として、情報は僕たちにとってわかりやすくすぐ役立てられるものとなる。で、たいていの場合、情報の信憑性をいちいち検討したりしない。仮にしたとしても、情報源に遡って「長春では、風向・風力は不明、快晴、1022ヘクトパスカル、氷点下15度」まで調べ直したりはしない。そもそもそんな暇はないのだし、多少の暇があったとしても個々の生活には、そうした退屈な検証よりもプライオリティの高いあれやこれやがいくらでもある。信憑性は、情報の受け手の科学的思考云々よりはるか以前の段階、たとえば、日常経験と目立つ矛盾がない/少ないとか、もっともらしい言葉遣いが用いられているとか、情報の発信源にそこそこ一般的な信頼が寄せられている(らしい)とか、あるいは単に話としておもしろいとかいった、曖昧模糊とした基準によって、ほとんど無意識の裡に判定される。決して情報の生産過程になんか踏み込んで考えていないもんだ。だって忙しいんだもん。


見えているものが見えていないぃ!

情報により多く対応することが生活を豊かにし、社会的地位を高めることにつながる僕たちの社会では、そこいらへん、相当の程度において避けがたいんじゃないかなぁ。で、そういうのに慣れっこになっていると、実は情報の生産プロセスを怪しんで然るべきようなデータにだって鈍感になる。『ゲーム脳の恐怖』の内容なんか、ちょっと注意して読めば素人目にだって胡散臭さの伝わるようなものだったよねぇ。でも実際のところ、データはほとんど読み飛ばしにされてるんじゃないか。データなんかはそっちのけで、データの解釈と考察の結論だけが読まれる。つまり読み手の側で情報をダイジェストしちゃうわけだ。『ゲーム脳の恐怖』の流行とはすなわち「ダイジェスト脳の恐怖」とでもいうべきものだったんじゃないかなぁ。で、そういう例もひょっとして増えていやしないだろうか。

たとえば、とある学習塾*2のサイトでは、《合格への手ほどきは特にしていない。なのに小6生の約9割が麻布中、武蔵中などの「一流校」に合格する。そんな驚きの塾がある》なんていう自分のところの有名週刊誌による報道例を取り上げている。ところが、「2009年度受験合格情報」、「2008年度中学受験合格情報」というページを見ても、全然9割になんかなっていない。で、「2007年度受験合格情報」を見てみると、

20100312154658

なんて数字が出ている。すげー、ちゃんと数えてみると合格率は10割を超えている!*3 *4「最終更新:2009-04-22 (水) 16:37:09」というページにあるタイムスタンプを信じるかぎり、もうすぐ1年が経とうとしているわけだけれど、その間、訂正が入らなかったわけだ。実は昨年12月には某有名テレビ番組でこの学習塾が取り上げられ、おかげで今では定員いっぱいの大盛況なのだが、こういうデータに訂正が入っていないということは、取り上げた番組スタッフも、番組につられて子弟を塾に通わせている親御さんも、この「誤り」に気づかなかったということなのだろうか。ページに付された個別ページのカウンタを見ると、相当数のヒトがこいつを目にはしているはずなのだが。

あるいは同じ学習塾の、一昨年暮れに発売された子ども向け教材には、《この教材は小学生の中学年・高学年向けに作られているが、中学生にも使える》との旨のボスの署名によるはしがきがある*5。発売当初の教材の帯には「中学受験もおまかせ!」と書かれていた*6。ところが、塾のウェブページによれば、塾ではその教材を「受験をしない6年生・中学生」に使用している旨の記述がある。中学年はすっぽ抜けてしまっているわけだ。

その塾とボスが刊行している教材や書籍は、塾のウェブで公開されているデータを信じると、塾の指導とは直接関係のないものを含めてもたかだか13冊。取り上げた番組スタッフは、ウェブの記述とそういう書籍に目を通していないなんてことはまさかないだろう。親御さんだって……。諸般の事情により論評は避けるが*7、もし目を通していたのに気づいていないとすれば……とあれこれ考えるところはあるが、とりあえずここでは書かないというか、¬‖★◎▼°¨々≦×≠∋∃⌒∬……


細かなあれこれはさておき、とにかくデータが提示されていたとしても、それを見てなおかつ見ていないって事実、ちょいとくらい驚いてみせてもバチは当たらないだろう。

と、万事こういう具合で、教育という個人的にも社会的にもきわめて重要なところであってさえ、データとなるものを目にしてなお実際にはそれを検討することなく受け入れてしまう習慣が僕たちにはついちゃってるんじゃないかしら。テレビ番組や大手出版社という権威が背景になければ、気づかれたかもしれない矛盾に、たいていの場合気づかない。見えているはずのものが見えていない、それが、僕たちの「情報視力」の現在とでもいえちゃうテイタラクなんじゃないのかなぁ。うーん。


だれもが「最悪の知識人」になり得る時代、かもなぁ

こうした問題は、上に述べたみたいに、まずは情報の受け手として気になる話ではある。でも、ブログだとかTwitterのある時代、だれもが情報の発信者足りうるって事実を考えるときにだってすんごく気になる話になってくる。

話は飛ぶが、たしかハイエクだったっけかがその知識人論の中で*8、最悪の知識人として学校の先生を挙げていたのを目にした記憶がある。ひょっとすると記憶違い、勘違いが混入しているかもしれないんだけれど、おおよそ《一次資料と格闘する経験を持たず、ブッキッシュな知識をもとに善意からの発言ばかりをするのがイカン》みたいな理由だったと思う。それがハイエクの発言だったか、僕の記憶による捏造なんだか、ちょいとあやふやなのだけれど、論旨そのものは気をつけるにシクはない、これはこれであり得る話ではないかしら。ひょっとするとアテにならないかもしれない書籍による知識を、ただ善意に基づいてヒトに語る、っての、ひと頃の『水からの伝言』が道徳教材として使用されちゃったなんて話をただちに思い起こさせる話だもんね。

で、僕みたいなパンピーのブログでの発言といったものも、実際のところ、一次資料との格闘なんかこれっぽちもなくて、経験則みたいなあやふやなところか聞きかじり読みかじりの知識をもとに、おおよそ善意に基づいた語りを展開しているにすぎないよね、たいていの場合。おまけに上に述べていたようなかじったあたりに「情報視力」の衰弱があるとすれば、たとえ善意に基づいていたとしても、「語り」がいつなんどき「騙り」に化けていないともかぎらない。他人様の「騙り」を難じていればそれでOKというだけでは済まない、面倒臭いったらありゃしないって話になってくる\(^O^)/。つまり、だれだって「最悪の知識人」たる資格を有しているってのが今の時代なのかも。あちゃー。


結論、打つ手なしぃ!

では、ここまで衰えた僕たちの「情報視力」みたいなものを回復させる(? もともとあったんだかどうかわかんないよなぁ、考えてみると。うーん)ためにはどうすればいいんだろうか? うーん、そこいらへんちょっと見当がつかない。こうした事態の進行はとどめようのないものであり、コイツとのお付き合いは避けがたいだろう。むしろこれからだって対応しなければならない情報は増えてくるだろうし、そうなってくるとダイジェストの度だって進んじゃうかもしれない。情報がわかりやすい形で提供されることだってすんごく重要だし、一次資料からの問題検討をだれもが短時間でホイホイこなせるような時代がやってくる心配は当分なさそうだ。そこいらへんは動かない。で、そういう情報環境に馴染んでしまうと、たぶん「情報視力」の衰えもますます進まざるを得ないのかもしれない。

専門家の先生方が、出回るガセなんかにちゃんと批判を加えてくださるとありがたいな、とも思うのだけれど、でも、たとえば「とらねこ日誌」 なんか読んでいると、世間からは専門家の先生と目されているはずのヒトビトだって怪しいことがあったりするみたい。冒頭で話題にした『カビない』の著者さんだって国立大学で化学を修めたヒトだったりしたわけだしぃ。うーん。どうしたもんだろうかしら。

たぶん、せめて視力の衰えに自覚的になること、自分の生活に直接かかわるような重要な判断に際しては面倒臭がらずに然るべきデータを検証すること、誤りを指摘するデータが現れればそれまで信じていたことに固執せず君子豹変すを恐れないこと……そのくらいしか思いつくところがない。もちっと気の利いたいいアイディアはないもんだろうか? 教えて! エラいヒト!


キーボード配列QWERTYの謎
安岡 孝一 安岡 素子
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実は僕自身予備校講師時代、坂村 建の著作を信じていて、印字棒が絡んで云々の話を授業でしちゃったことがあるんだよなぁ(^_^;;。テクノロジ一般とヒトの関係を考えるうえでも、いろいろ示唆的に見える話だし、坂村 健の名前は信じて構わない権威でしょ、今だって。一つ二つの誤りだけで坂村 健への敬意は削がれないけれど、でも相当ショックだったし、なるほどおいらも最悪の知識人としての資格が備わっているのだな、と痛感させてクレタ本。でも、こう綴るのもまた、ブッキッシュなネタをそれなりの善意に基づいて紹介しているというあたりに変わりはないんだけどぉ\(^O^)/


虹は七色か六色か―真理と教育の問題を考える (ミニ授業書)
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これもブッキッシュな知識の危うさを知るのに都合がいい本。日高敏隆、村上陽一郎、桜井邦朋、鈴木孝夫のような大御所も名指しで批判の対象になっている。桜井邦朋なんかは大学入試小論文課題文でニチベイの文化による虹の色の違いを語るところが出てたから、大学のセンセイん中にだって最悪の知識人の資格を有する方がいらっしゃるってことかもしれん。

ついでに、物理的な薄さと名著度の割合を考えた場合、これくらい名著度コストパフォーマンスの高い本はめずらしいと思う。問題は買わなくても十数分の立ち読みで一読できてしまうことかなぁ\(^O^)/



天気図の書き方手引―やさしい天気図教室
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今時分の季節の変わり目なんか、天気図が読めるとけっこう楽しい。面倒臭そうではあるけれど、書けるとたぶんもっと楽しいんだろうなぁ。天気図用の用紙もアマゾンで購入できる。

もし興味を覚えてお求めの際は、こちらからどうぞぉ(^_^;


追記

元々のエントリでは以下のようなコメント欄での遣り取りがあった。

教師のはしくれとしてホント身につまされる話です。どうすりゃいいのっていう点についてはたしかに打つ手なしですが、日本の小学校の場合だと、担任の教師に一週間に一度は自分のわからないことについて生徒に話すことを義務づける、なんてのはどうでしょうか?

ガッコの先生にもわからんことがあるのがあたりまえなんだ、じゃ自分でよく見て考えなくてはならんな〜、って子どもの頃から見にしみて感じさせるのです。日本の人たち、最近どうも聞いたことを右から左へ自分で考えずに伝え継ぐ傾向が顕著なように思います。そうなっちゃう原因の一つにやはり教育があるんじゃないでしょうか。

専門家について言えば(専門家ではなくても大の大人について言えば)、自分にわかる分野をこつこつ攻める、って姿勢があってほしいですね。今の時代情報視力を一定のレベルでキープするには、手広くやってもしょうがないですから。

雑感ですみません。

ponta 2010-03-25 15:33:53


ごめんなさい、反応がすっかり遅くなってしまいました。コメント、ありがとうございます。

そうですね。先生にもわからないことがあるのは当然。とはいえ、教師の権威が社会的に広く認められているとは云い難い昨今、なかなかむずかしい対処かもしれません。こうした問題は仮に教育にその淵源が認められるとしても、その責が学校教育にのみ帰せられるものでもないと思います。社会が知的な情報にいかほどの敬意を持ちうるのか、その手本を見せていない以上、学校といったかぎられた環境の中でのみ教師ががんばっても効果は期待できないように思うからです。

ですからより重要なのは、後半でpontaさんがおっしゃる、教師にかぎらぬ大人の努力が、社会的な規模で子どもたちに見えるようにすることかもしれません。って、こっちゃのほうがいっそう実践されがたい気がしてきますよねぇ\(^O^)/。

もし学校教育でなされるべきことがあるとすれば、はてブコメントでsus-eduさんが記しておられたような、知識の構造化を教えることでしょう*9。率直にいえば、これとて根本的な解決策になるとは考えていないのですが、エントリで提示したような状況への抵抗力を培うには大いに力になるものだと思います。コンテクストを重視するようになれば、「トンデモ」へのフィルタリング能力くらいは増すのではないか、ということです。


そういうことを考えていると、気になってくるのは報道のあり方。たとえば、先日ニュースになった新しい古人類の話。

-3〜5万年前のロシア南部に「未知の人類」(読売)
http://www.yomiuri.co.jp/sc...
-DNA identifies new ancient human dubbed \'X-woman\' (BBC)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/...

量というよりも、発見の位置づけ、つまりコンテクストについてBBCのほうがずっとていねいな説明になっていると思いませんか? たしかに量が増えて(おまけに英語だしぃ\(^O^)/)全部読むのは面倒です。でも各人の必要によって読む分量は変えればいいだけです。問題はコンテクストをより広げようとしたとき、そのためのとっかかりになる話があるかどうかです。コンテクストを広げるためのとっかかりになるくらいの情報なら、今の日本のメディアにだって努力次第で提示できるんぢゃないのかなぁ。BBCに出来て日本ではできないってな決定的な原因なんてあるんでしょうか。


ここいらへんの質の改善というのが、実は教育のあり方を変えるよりはやりやすいことなんぢゃないかと思うんですが。うーん、どんなもんなんでしょうか。

neanderthal yabuki 2010-03-30 14:16:31

  • 注1 でもコンビニのパンって、今やほとんどヤマザキばっかって感じなのがなぁ。
  • 注2 ホントは名指ししたいのだけれど、以前別ブログで批判記事を書いたら、民事訴訟なんかの可能性も匂わせた「抗議」があったんで、申し訳ないがここでは秘す。民事になっちゃうと弁護士さんを自前で雇わなきゃいけないけれど、着手金だってべらぼうだもん。書くべきことの半分も書かず、名指しで批判しないのは、社会的正義に反するとは思うものの、今のカラっけつ状態ではいかんともしがたし。許されたし。無念。
  • 注3 VodkaDriveさんから「塾の合格数に関しては、一人で何校も受験して合格する生徒による水増しかと。優秀な生徒が4〜5人居れば合格率は相当高くなります。これを合格率と言っていいのかは別として」というはてブコメントをいただいたが、合格情報の数字、「※一生徒一校のみ記載」とされていることに注意してほしい。ふつうに読めば、一人の生徒が2校以上合格してもそのうちの一校しか記載していないものととれるはずだ。
  • 注4 上記註については、塾の合格数に関しては、一人で何校も受験して合格する生徒による水増しかと。優秀な生徒が4~5人居れば合格率は相当高くなります。これを合格率と言っていいのかは別として。 - VodkaDrive のコメント / はてなブックマーク、元エントリへのはてなブックマークコメントを参照。
  • 注5 塾のウェブページにもまえがきが「転載」されているが、いくつかの文言が発刊当初のものから書き換えられている。
  • 注6 現在は、有名テレビ番組でとりあげられた旨が記された帯に換わっている。ただネット通販のページの中には発刊当初の帯の文言を残しているところもあるみたい。
  • 注7 件の「抗議」の折、顧問弁護士から来た通知書によると《「***」等の販売方針、販売方法は、発売元出版社の判断に基づくものであり、通知人、通知会社とは関係ありません。通知人及び通知会社に対する根拠のない誹謗、中傷は今後一切なされぬよう忠告致します》とあったので、ここでは塾とそのボスが世間にすでに公開している事実だけを指摘しておく。通知人は塾のボス、通知会社は塾になってる。「***」は件の教材名。以上のような具合なので伏字にせざるを得ない。閲覧諸賢のお許しを乞うばかりだ。「はしがき」は、そもそも通知人=塾のボスの名前が付された文章なんだから、文責は出版社じゃなくて通知人にあると考えるのが理論的論理的に根拠があると僕は考えるのだけれど……。うーん。
  • 注8 ホントは出典をたしかめなきゃいけないんだけれど、火事で焼いちゃって確認できん。論考のタイトルさえ記憶していないという具合ですんません。そこいらへん、閲覧諸賢各自で調べといてくださると幸甚。ついでに教えてくださるなら尚可。厚かましくてごめんちょです(^_^;
  • 注9 cf. 知識量が増えてダイジェストが必要ということについては知の構造化という解があるとして、そこからノイズをはじき出す方法ってあるのかしらん。 - sus-edu のコメント / はてなブックマーク、元エントリへのはてなブックマークコメント。

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