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最終更新日時 : 2016-11-26 12:46:24  

直前期でもあるし、ということで、大学入試小論文関連の記事をしばらく掲載してみるべし。まずは最初にやっておくべきこと。直前期駆け込み組ならチョー大急ぎで、4月から取り組み始める人でも、もし志望校が決まっているのなら、ゴールデンウィークが終わるまでには一通り済ませておけるといいなぁ。決まっていない人でも文系なら社会科学系一般とか人文系一般とか、少し範囲を広げた形で取り組んでおきたいところ。


まず過去問を確認しよう

大学入試小論文の直前対策にあたって何が重要って、これほど重要なことはない。

だって、小論文の場合、英単語・文法や古文のそれみたいな頻度順対策なんかあてにできないんだもん。とくに志望校がはっきり決まっている人の場合は間違いなしにそう。小論文の参考書や予備校、塾の授業なんかだと、ごく「標準的な」問題への対策がほとんどの場合中心になる。でも現在の大学入試小論文の問題は受験生が思い込んでいる以上に多様なのだ。だからして、標準的な対策がただの時間の無駄ってことになるケースだってある。だから、これまで何も対策を立ててこなかったという人にも挽回のチャンスはあるし、今まで小論文全般については対策を立ててきたって人だって安心はできない。いずれにしても短期間で効率的に対策を進めるためには、他教科以上に志望大学学部学科の問題に合った学習が必要になる。小論文はそういうものなのだ。


今の時期、センター試験対策で手一杯だという人も多いだろう。でも過去問に目を通すくらいのことはできるもんだ。外出した折に赤本の類を立ち読みしてみるだけでもいい。有名大学の問題なら、大手予備校のウェブサイトでだって読めてしまう。解答例や解説の類はいっさい気にしないでいいから、どんな主題をめぐってどんな形式の出題がなされているのかちゃんと読んでおこう。読んでおくだけでも、頭のどこかがそいつについて考えておいてくれるもんだ。そうでなくたって、君のものを見るアンテナの感度が違ってくる。

過去問を眺めてみると、今まで小論文対策を立てて来なかった人にはべらぼうな難問が並んでいるように感じられるかもしれない。でも問題のむずかしさと合格水準の高さはしばしば無関係だ。小論文の占める配点比重が軽い大学も少なくないし、答案の平均水準のおそろしく低い大学も多い。市販の参考書・赤本類の解説は高い水準を要求して書かれてることが多い*1から、そういうのを読んじゃうと意気阻喪するかもしれないけれど、そういうのはとりあえず無視してよい。さっさと立ち読みのレパートリーに過去問集を入れておくべし。

これは小論文の学習を始める初期においても重要なこと。まして直前期駆け込み組となれば大急ぎでやっつけてしまわなければならない大切なポイントになる。


過去問確認には、赤本以外だと今なら以下の書籍がお薦め。

大学入試小論文問題集 2014年度 (河合塾シリーズ)

河合出版
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小論文問題の収録数ではこれが一番。問題の選り好みもない*2ので、値段が気にならないならお薦め。たぶん、高校なんかには常備されているんじゃないかしら。先生に尋ねてみるべし。解答例・解説はとりあえず気にしないで、自分の志望系統学部学科の問題に目を通す。


新小論文ノート 2016―ベストの問題・解答例・解説集

代々木ライブラリー
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河合塾のは高いぜ、という人には、次善の一冊。こちらは解説・解答も多少出来不出来のムラがあるとはいえおおむね参考になる。


【付記】参考書類は閲覧時点での最新版には必ずしもなっていない点に注意。

  • 注1 その割に設問にちゃんと答えていない解答例なんかもあったりするんだよなぁ。ったく。
  • 注2 一般的参考書の場合、目立つ形ではないけれど、執筆者の考え方、解法に都合のいい問題が選ばれている傾向がある。これはちょっと困ったモンだ。


最終更新日時 : 2015-08-08 23:38:26  
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読点の打ち過ぎには注意!

「読点(、)なしで書いてみる」(FPN)*1『日本語の作文技術』を取り上げながらの表題通りのおもしろい試みが提案されている。

考えてみれば日本語への句読点の導入は近代になってからの出来事にすぎない。「読点」くらい省いても読めなくちゃぁ日本語じゃねーよという発想はあっていいのかもしれない。

記事で紹介されている「まずは読点(、)なしで書く」(発想七日!)も興味深い。ぜひとも一読しておきたい。


というわけで読点なしで書いてみた。


100ページの文章術 -わかりやすい文章の書き方のすべてがここに-
酒井 聡樹
共立出版
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しかしながら今なら『日本語の作文技術』よりもこちらのほうがお薦めできるのではないかなぁ。


  • 注1 現在リンク切れ。後で紹介する記事も基本的に同趣旨なのでそちらを参照されたし。


最終更新日時 : 2015-08-07 22:12:06  
20150807214548

Norman Kingsley Mailer (January 31, 1923 – November 10, 2007)*1

「When a writer can't find the nuance」(Manage Your Writing)で、先日亡くなった小説家ノーマン・メイラー(Norman Mailer)の言葉が紹介されている。

When a writer can't find the nuance of an experience, he usually loads up with adjectives.

修飾語句の濫用はつとに戒められてきた。でも、形容濫用の問題をテクニックの問題に帰していないところが、さすが作家さんなんだろう。形容詞を使うな、というのではなく、書き手がだめんなっちゃうと形容詞の詰め込みをおっぱじめるもんなんだ、というのだから*2

ところが、エントリの書き手さんは、

Mailer advises well. I overuse adjectives, so his words chastise me. When you next revise something, honor Mailer's memory by looking for ways to replace adjectives, as I tried to do in this post.

なんて云っている。これはメイラーの云い分の正しい受け止め方なんだろうか?

風邪をひけば鼻水が出る。だからといって、鼻水流出を防ぐべく鼻に栓をしたって、風邪が治るわけは当然ない。息が苦しくなるだけだもん。書き手が経験の肌理に鈍感になって作中に形容詞がむやみに増える。だからといって形容詞を減らしてみて、そこに出来するものって何なのだろう。単に形容詞が少ないだけの空疎な文章なのかもよ。形容詞の数を減らしたからって、別に経験のニュアンスがバリバリ見えてくるってわけでもないだろう。もしメイラーの言葉をまじめに受け止めるんなら、形容詞を他の表現で置き換えることよりも先にやるべきことがあるんじゃないかしら。紙の上の辻褄合わせだけでは大いに不足があるのではないかしら。


教訓

気が利いているって感じの言葉は、どうしたって利用したくなる。その時々の話題にも関係するとなればなおさら。でも気の利いた言葉ってカッコいいやつほど意外な棘や迷路を含んでいるものだ。利用する場合にはそれなりの注意が必要だってことになりゃしないかな。

うーん。いやしかし書いてみると、過去、自分の書いたあれこれ、わからんちんなまんま引用した言葉の数々を思い出して、小っ恥ずかしくなって来もする話題だわいな。はれほれ。


おまけ

ワインバーグの文章読本
Gerald M. Weinberg ジェラルド・M・ワインバーグ G.M.ワインバーグ
翔泳社
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11月20日発売だそうだ。洋物の文章術本って、翻訳のせいなのか扱う言葉の違いのせいなのかわからないけれど、どうも当たり外れが大きいって感じ。でも、ワインバーグものとなると、これは気になるなぁ。今どうにもこうにもどん底金欠なので速攻で購入というわけには参らないのだけれど、20日は書店で立ち読みでもしてみるべし。

【追記】 案の定、なかなかの「文章読本」だった。単に紙の上の言葉の問題だけを論ずるのではなくて、書くために必要な態度、生活にまで話が及ぶところ、さすがワインバーグ先生。そういうところでのアレコレがなければ、紙の上の作業だけではどうにもならないという、多くの文章指南書が無視している肝をちゃんと押さえている。


ノーマン・メイラーの翻訳物、もう代表作でさえ新本を入手できない状態になっちゃってるのね。ちょっとびっくり(cf. amazon.co.jpでの「ノーマン・メイラー」検索結果)。



最終更新日時 : 2016-05-09 02:07:36  
20100110063305

「停まります」か「泊まります」かで悩むヒトは滅多いない

「人力検索はてな」に文章細部の訂正への疑問が登場している。受け応えを見ながら、へぇー、ふーん、っといろいろ考えたのだけれど、こういう細部だけ取り出して訂正の正しさを考えるのって、そもそもどうなんだろう。細かい訂正をさんざに受けた質問者の気持ちはものすごくわかるから、そいつにケチをつけようということじゃないんだけれど。


以下は、とあるウェブでの文章作法を扱った書籍に登場していた話*1

黒い髪の綺麗な女の子にはマーブルオレンジで決まり!!

という例文の「黒い髪の綺麗な女の子」には、

  1. 綺麗な髪を持つ、黒い肌をした少女
  2. 黒い髪をした、綺麗な少女
  3. 綺麗な黒髪を持つ少女
  4. 綺麗な髪を持つ、黒い肌をした女の子供
  5. 黒い髪をした、綺麗な女の子供
  6. 綺麗な黒髪を持つ女の子供

の6通りの解釈ができてしまうから、曖昧でダメダメ表現だといった旨、その本には書いてある。うーん、でも文章の中での具体的な文の布置を考えないと、この手の指摘って文章作成の効率を下げるだけの瑣末主義と考えられないだろうか。「女の子」さえもが2通りに解釈できる曖昧な表現だと云い募るなら、「女の子供」という語句だって同じく2通りに解釈できる表現だ。「女の子供」ではなく「母親の子供」なり「女性であるところの子供」なりにしなきゃぁなるまい。

コンピュータに自然言語処理をさせようとでもいうのであれば考えなければならないあれこれも出てきそうだが、ヒトを相手とするのであれば、この細かさは文章作成のコストを上げるばかりの代物ではないのか。ウェブ上の文章ってことが前提にあるのなら、モデルの「少女」だか「母親に連れられた子供」だかを写真掲載すれば、あるいはイラストの一枚も載せれば、それでかたづく話なんじゃないのか。そちらのほうが一文の細々した訂正なんぞよりいっそ気の利いた対処だろう。

言葉は常にコンテクストにおいてある。「あっ!」という一言でさえ、登校途上の小学生が発したもので、いっしょにいた友人が算数の宿題の話をし始めた途端のセリフだったのだとすれば、これは十中八九、宿題を忘れたな、コイツめ、ってなことがわからないでもない。表現のみ取り出せば曖昧。しかし、傍から見ている他人にもピンとくる、言葉の遣り取りとしてはきわめてわかりやすい言葉、コミュニケーションの場においてはそれなりに正確な言葉といえるんじゃないか。つまり、「正確な曖昧」というものも、コンテクストさえしっかりしていればあるんじゃないか。

そういうことを考えないまま、細部の「正確さ」ばかりを追い求めるというのは、ひどく抽象的な言葉の捉え方だろう。要は日本人の陥りがちな瑣末主義にすぎないのではないか。工学的なマニュアルなんかだとそうも云ってはいられない厳しい事情がありそうだが、そうではない文章にまでむやみに細部の「正確」を求めるとき、何かそういうコミュニケーションの繊細な機微が、かえって見落とされていはしないだろうかしら。

正確な曖昧 (1961年)
正確な曖昧 (1961年)
posted with amazlet at 15.08.07
藤富 保男
時間社

思潮社現代詩文庫版の『藤富保男詩集』にも収録されていたと思うが、うーん、そちらも現在品切れみたいだ。残念。


  • 注1 書籍全体としてはよくできていたので、ここでは具体的な紹介は控える。

最終更新日時 : 2016-11-26 12:47:57  

対象を評価する、いいとか悪いとか論じるとき、案外その評価基準に自覚的でないことって多くないだろうか。しかし当然のことながら、評価基準があやふやなままで優れた評価は行えない。そういうことをちょっとだけ考えてみよう。

次の文章を読み、後の問いに答えよ。

Aさんは、出来るだけ長い話をするコンテストに出場して、次のような話をした。

『あるところに、お爺さんとお婆さんがいました。お婆さんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れて来ました。お婆さんはこの桃を家に持って帰り、お爺さんと切ってみると、中から男の子が出てきました。二人は、この子に桃太郎と名づけました。次の日、川で洗濯をしていると、また桃が流れて来ました。家に持って帰り、切ってみると、また男の子が出てきましたので、今度は桃二郎と名づけました。そのまた次の日に川で洗濯をしていると、またまた桃が流れて来ました。この桃の中からも男の子が出てきたので、今度は桃三郎と名づけました。…………(以下、同様に続く)』


君がコンテストの審査員であるとして、Aさんの話の構成について、高く評価する点や批判する点などをあげ、その理由を明確に示して論評せよ。その際、論評する項目は自由に設定してよい。またAさん以外の出場者の話の内容に言及したい場合には、自由に想像し、利用してもよい。

富山大学生物学科の、古い小論文問題。出題された年にはメディアにもユニークな問題ということで取り上げられたんだけれど……。あなたならどういう答案を書くかしら?


予備校で取り組んでもらった際には、《話の長さを狙うあまり理屈ばっかりで話の面白さに欠けている。もっと文学的な巧みを凝らした作り方が必要だ》といった論旨の答案が多かったのだ。うーん、しかしこれは評価基準を正しく設定できていないんじゃないだろうか。いくら「論評する項目を自由に設定してよい」としても、これは「長い話をするコンテスト」なんだから。

つまり、長い話のコンテストである以上、仮に文学的表現力みたいなものを論評項目の一つにするにしても、それが話を長くする工夫に対する評価以上に重視されるべきではないんじゃないのか、ということだ。

たとえば、Aさんの話は「理屈ばっかり」だといえるだろうか? たしかに普段読んでいるかもしれない小説の類と比べれば理屈が表立っているかもしれない。だから小説やら詩やらと比べると理系的野暮を感じちゃうのかもね。でもそれはどんな理屈だろう?

よっく考えると、Aさんの話って原理的には数学的帰納法で長い話の長さ加減を獲得してるわけでしょ*1。だから「Xさん夫婦は長男には一郎と名づけた、次に生まれた次男には二郎、三男には三郎……」でも理屈はいっしょ。もっといえば「1、2、3、4、5、6、……、n」なわけでしょ。そういう理屈をだれもが知ってそうな民話で包んで脚色してるんだから、文学的工夫が凝らされていると見るのが「長い話をするコンテスト」の審査員としての筋ではないだろうか? 「長い話」のコンテストであれば、評価基準はまず何よりも話の長さを中心に考えられなければならない。他の論評項目はすべて副次的なものと見ることを忘れてはならないはずだ。

僕らは、ついつい日常的な感覚で何でも評価してしまおうとする。でも、対象の評価に当たってそれが正しい基準となるかどうか。たとえば、日常的な感覚と法的問題の考え方の間には少なからぬ隔たりがあったりする。問題の置かれているコンテクスト(文脈、状況)を確認しなければ筋の通らない評価を堂々と下してしまう危険があるわけだ。そういうところは、案外自覚しにくいところなのかもしれないけれど、意識的になっておく必要があるんじゃないかなぁ。


解答例

なかなかおもしろい仕上がりだ。長い話のコンテストである以上、話は究極的には無限に自己増殖するシステムになっていることが望ましい。その点、Aさんの話は「桃太郎、桃二郎、桃三郎……桃n郎」という構成になっており、無限に続く話まであと一歩のところまで到達しているといっていいだろう。しかもそうした発想を剥き出しにせずに、「桃太郎」の話を踏まえている点で、広い意味での文学的脚色が見られるなど、高く評価できる。ただし、Aさんの話には致命的な欠点がある。それはお爺さんとお婆さんが有限の命しか持たないという点である。そのために、この話も原理的には有限の長さしか持つことができない。この点は是非とも改められねばなるまい。たとえば、私なら以下のようにAさんの話を書き改めるだろう。

「ある所に、お爺さんとお婆さんがいました。お婆さんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れて来ました。お婆さんはこの桃を家に持って帰り、お爺さんと切ってみると男の子が出てきました。二人は、この子に桃太郎と名づけました。やがて成長した桃太郎は、都に出てたいそう美しいお嫁さんをもらって故郷に帰ってきました。そのお嫁さんが、ある日川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れて来ました。家に持って帰り切ってみると、男の子が出てきましたので、今度は桃二郎と名づけました。やがて桃二郎も立派に成長し、都に出てたいそう美しいお嫁さんをもらって故郷に帰ってきました。そのお嫁さんが、ある日川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れてきました。家に持って帰り、切ってみると……(以下、同様に続く)」

これなら、桃太郎の家系がこの話以外の事件の介入を受けない限り、決して終わることのない話が仕上がるだろう。やはり徹底的に長さを追究する姿勢を求めたいものである。


頓知みたいな問題ではあるけれど、これって、言葉で生命のモデルを考えさせる問題と見えるところが興味深い。自己増殖するシステムを言葉で組み立ててみようっていう発想があったからこそ「生物学科」の問題足りえたんじゃないだろうか? 出来るだけ手間暇入らずに勝手に育ってゆく生き物。そういうのを言葉で作ってみるとどうなるだろう? それが問題の隠れた問いだったんじゃないかなぁ。そういう引いたところから眺めてみると、問題解決に要求されるコンテクストも少し見えやすくなるのかもしれない。


思いつき的おまけ

「昨日の午後、私が部屋で本を読んでいますと、彼がやって来て、一枚の紙片をテーブルの上に置いて出て行きました。その紙に書いてあったことを、私は一字一句そのままに書き写しています。いま読んでいらっしゃるこの文章、『昨日の午後、私が……』にはじまる、まさにこの文章がそれです。この文章をあなたはいまお読みになっているわけですが、この文章の奇妙な点はどこにあるのか、ひとつ考えてみて下さいませんか」

上の文章の奇妙さ(それがもしあるとすれば)を考えよ。

(入沢康夫『詩の構造についての覚え書』思潮社)


「詩は表現ではない」の有名なテーゼを含む、今や古典といっていい一冊。77年刊行の増補版の改訂新版。


  • 注1 まさか死ぬまで会場で上の話の続きを語り続けるわけぢゃぁないだろうから。

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