06月15日: お知らせ

カテゴリー: お知らせ
著者: nean

いろいろあって復旧がずいぶん遅れております。


しばらくの間、以下のページで更新を続けております。よろしければ、そちらを覗いてやってくださいまし。


カテゴリー: 読む
著者: nean

先のエントリ、「『わかりやすさ』の陥穽と僕たちの『情報視力』の問題——だれもが最悪の知識人になれちゃう時代」(Garbage Out!!)*1では、ダイジェスト化されている情報の気になるところについて書いた。別にダイジェストそのものが悪いってわけじゃない。僕たちの多忙な生活を考えるとき、むしろダイジェストは必要不可欠なものなのだ。けれど、どうもダイジェストの基本である要約の技術って、必ずしも人々に共有されているようには見えない。何となく重要そうなポイントを拾い上げて適当にくっつけてやり過ごしていると見えるケースが多いみたい。

でも、要約の基本的な目の付けどころは、少なくとも実用文の場合、割とはっきりしている。多くの閲覧者が共通経験を持っているであろう大学受験向きの要約の基本をまとめた小冊子を昔作ったことがある。そいつをここであげておく。

実はもともと公開していたサーバのほう、どうも503エラーが多くてダウンロードできんぞ! って話があったんで、公開場所を変更するついでに、このエントリを書いていたりするだけなのだがぁ(^_^;

問題などはもうずいぶん古くなっているし、今ならもうちょっと違った説明をするかな*2というところもあるし、これイッチョで要約は完璧という結構な具合にもなっていないんだけれど、とりあえず要約の基礎を知るには悪くない冊子になっているんぢゃないかな、と自分では思っている。なぜこの言葉を取りあの言葉を捨てたのか、そういうところは市販の現代文参考書よりは具体的に説明するよう心がけた。

要約のお作法の細かなところは、領域・業界さんによって多少の違いがあるみたいだし、大学受験でもいろいろな「方法」なり「テクニック」なりを唱える方がいらっしゃるから、そこいらへんとの違いはテケトーに読み手で考えておいてほしい。ただまぁいずれにしても基本を愚直にまとめるとこうなるってところはご理解いただけるのではないかと思う。便利に使っていただければありがたい。


使用上の注意

僕の書いた解説部分はGFDL(GNU Free Documentation License、GNU フリー文書利用許諾契約書)にしたがって使用していただければ結構ということにしてある。今ならクリエイティブ・コモンズ・ライセンスにしてたかなぁ。GDFLの英語原文は冊子末尾にある。日本語参考訳はGNU フリー文書利用許諾契約書 - GNU プロジェクト - フリーソフトウェア財団 (FSF) を読まれたし。内容のあらましについてはGNU Free Documentation License - Wikipedia など参照のこと。

本当はLaTeXのソースも公開したいところだけれど、残念ながら火災の折にPCごと焼失してしまったので、そいつはできない。PDFには変なプロテクトの類をかけていないので、形を変えて使用したい場合はコピペなどされたし。ただし、引用部分については改変は許されない。そのへんはくれぐれもお忘れなく。

本冊子中に書かれている『小論文の道具箱』は2005年春に、いろいろあって閉鎖した。メイルアドレスも現在ではなくなってしまったfreemailのものしか書かれていない。訂正すべきところや感想などあれば、このエントリのコメント欄か、メイルフォームに書き込んでほしい。再配布なさる際には、そこいらへんのことも忘れずに伝えていただけると幸甚。


  • 注1 まだ復旧できていない。ごめんm(_ _)m
  • 注2 とくにトゥールミン・モデルのことなんかは絶対に触れることになるだろうなぁ。

10月12日: ツッコミ演習

カテゴリー: 考える
著者: nean

今回はツッコミ演習。簡単な入試問題を解きながら、ツッコミの基本を考えてみよう。

次の文章を読み、後の設問に答えなさい。

社会の変化についてA君とB君が次のような議論をしています。

A君 「社会の仕組みを変えるには、過半数の合意をとりつけた上で、リーダーが思い切った決断を下し、すばやく一気に実行すべきだ。妥協点を探るために長い時間をかけていると、結局は現状を部分的にしか修正できず、中途半端に終わってしまう。それよりも、時代遅れになったものはできるだけ早く壊し、まったく新しいものを作る方が、一時的な痛みはあっても、少ない犠牲でよりよい未来が開けると思う。」

B君 「いや、そうは思わない。人間が新しい現実に慣れるまでには一定の時間がかかる。急激な変化を起こせば、必ず反動が生じ、対立が尖鋭化する。それによって多くの血が流されることだってある。社会の仕組みを変えるには、過半数といわず、圧倒的多数の人間が合意できるまで時間をかけ、小さな部分修正や妥協を積み重ねていく努力が大切だ。その方が、結局は少ない犠牲でよりよい未来が開けると思う。」

設問 A君、B君のどちらか一方の立場を選択し、他方の立場を批判しながら自分の立場を主張する議論を組み立てなさい(600字以内)。

ただし以下の点に注意すること。

注意点

  1. どちらの立場を選択するかを冒頭に明記すること。
  2. どちらの立場を選択するかは採点に影響しない。あくまで議論そのものの説得力が採点の基準となる。

(東京医科歯科大)*1

A君、B君、いずれを批判するにしても、ここで求められているのは、相手の議論へのツッコミだということはわかるだろう。

ここでは、入試問題を解くことがさしあたりの目的ではないから、あんまり細かいところは気にしないで考えるということにする。制限字数も気にしない。ただ、せっかくだもの、A君、B君の両方の立場に立って、できるだけ多くのアイディアを思い浮かべてみたい。


A君対B君のポイントは何だろう?

ということで、A君、B君の議論を整理してみよう。二人の「社会の仕組みの変え方」をめぐる対立点、共通点は、どう整理されるだろう。


 A君  B君 
 必要とする合意  過半数程度  圧倒的多数 
 かけるべき時間  すばやく一気に  合意ができるまで 
 相手への批判ポイント  妥協点を求めていると変革は困難  急激な変化は厳しい対立を生む 

その他、共通点として、仕組みの変化に伴う犠牲は少ないほうがいいと考えているという点も挙げられるかもしれない。

以上を考えてみると、社会の仕組みの改革に伴う犠牲は、A君、B君どちらの立場をとった方がより多くなるか、というのが次に考えなきゃいけないことになるよね。犠牲は少ない方がいいというのが二人の共通認識なんだから、おまえさんの主張の方が、たくさんの犠牲を生むことになるぞ、という議論を構成するのが、相手を論破するオーソドクスなアプローチになる。

あるいは、A君の主張では、かえって中途半端な改革しかできないとか、逆にB君の主張では、厳しい対立が起こるとかいったふうに、それぞれの批判点を逆手にとるというやり方も考えられる。

いずれにせよ、ツッコミを考えるときには、直接問題を解く前にツッコミに必要になりそうな議論の枠組を考えると、冷静に糸口を見つけやすくなるものだ。


言外の前提に突っ込みを入れてみる

しかしまぁ、ちょっと考えてみるとわかることだと思うんだけど、A君とB君の議論って、ずいぶんが思い切りがいい*2。本当は、社会の仕組みの一般的な変え方なんて、この程度の短い議論でわかるわけがない。「社会の仕組みを変える」といっても、どんな社会のどんな仕組みを変えるか考えずに済むわけないでしょ、フツー? 憲法と一般的な法律では、求められる合意の広さに違いがあるみたいに。社会的な条件と具体的な制度によって、さっさと変えた方がいいか、ゆっくり妥協点を探ったほうがいいかが決まるって考えた方が自然だよね(念のためにいっとくけど、これをまんま書いたのでは、設問を無視したことになっちゃうからね。とりあえずここでは禁じ手ということにしよう)。だからして、本当はどちらがより多くの犠牲を生むかは、実際に具体的な社会の仕組みを変えるケースを取り上げてみないとわかんない。そう考えるなら、A君、B君の主張に当てはまる/反する具体的な事例を考えて、うまくまとめられそうな方を答案にしちゃう、というのも一つのアプローチにはなるだろう。

ということで、もう一度A君、B君の議論に立ち返ってみよう。

書かれているかぎりの議論を読むかぎり、二人とも筋の通ったことを言ってる。短い字数でよくこれだけまとめられたもんだよね。でも、短くて筋が通ってみえる論考って、たいていの場合言外の前提があって、そいつを賢明な(?)読者が無意識に補ってるから筋が通ってるってふうに見えてるってことが多い。だから、議論をたどり直して、登場する一つ一つの論点の前提は何かを検討するわけ。そうすると、まだ相互に批判し尽くしていない点が見えてくる。


僕らってそんなに頭がいいか?:A君への批判

たとえばA君の主張の場合、古い社会の仕組みに取って代わることになる新しい仕組みを正しく作る能力だけは、僕たちにあるってことを前提にしている。新しい社会の仕組みが、導入に伴って多少の葛藤を引き起こすにしろ、まぁ古い仕組みの問題点を解決できなかったり、新たな問題を生み出したりするようなことだけはあり得ないというわけだ。けれど、本当にそうだろうか。そういうことだってあるには違いないだろうけれど、いつだってそういうご立派な仕組みを考えつくほど僕たち人間の頭はいいんだろうか。

人間のやることは完全じゃない。むしろ、問題の見落としや予想外の障害に出喰わすことになるなんて、ありふれたことだと考えられるんじゃないかなぁ。で、たぶん社会の規模が大きくなればなるほど、そういう問題は増えるだろうし、深刻なものになると考えることだってできそうだ。出喰わすたびに問題を回避しなきゃいけないとなると、新しい仕組みに絶えず修正を加える必要が出てくる。結局、社会の仕組みを犠牲の少ない形で変えようとすれば、時間をかける必要があるってことになるかもしれない。そう考えれば、B君の批判以外の論考も可能になってくる。比喩的にいえば、短期間で劇的に効く薬は思わぬ副作用を伴うものだし、人間様の体って複雑だったり個体差があったりして、ときにはその副作用が致命的な場合がある、みたいな話。

たとえば、IMF(国際通貨基金)は、もともとは貿易収支不均衡による為替の歪みを比較的短期の融資によって、自由で多角的な取引を行い得る条件を整える活動(要するに市場経済圏に融資対象国を組み入れる活動)をする国連の専門機関。とくに最近は、累積債務問題を解決するための、開発途上国向けの経済再建アドバイザーみたいな役割も果たしてる。だから、まぁ世界的に見たって、それなりに頭のいい人たちが集まってるはずなのだ。IMFの政策は、長くても5年以内に国際収支の赤字を圧縮しちゃおうというんで、一気に問題点をなくすべくがんばっちゃうものになってる。A君の国際機関版みたいなところなのだ。けれど、IMFの政策は対象国の社会文化の独自の事情を考えないで、自由市場のシステムに入れちゃおうとするため、しばしば社会に混乱を引き起こしたり、むしろ金融危機なんかを作り出したりしちゃてるという批判を浴びてる。まぁ、細かい事情はさておいても、解答例に書いてあること+αくらいのことは、全然知らないという話ではないと思うんだけど、どうだろう?

性急に社会の仕組みを変えようとした場合のあれこれって、他にもある。A君の議論では新しい仕組みを実際に政策実行する人間の問題には十分触れてない。けれど、これもそれなりに大きな問題になる可能性はある。社会の体制を変えなきゃいけないなんてときには、しばしば旧体制のエリートを一気にパージしちゃうことがある。日本でも戦後、公職追放なんてあったし、比較的最近でも、イラクの保健省の大臣にアメリカが旧バース党員を指名したというんで、保健省所属の医師や看護師たちがデモで抗議して辞任に追い込んだなんていうのがあった。日本やイラクがどうなった/なるかはさておくとして、こうしたパージは、結果としてズブズブの素人が政策に当らざるを得ない状況を生み、多くの社会的な混乱を引き起こすなんてことも考えられる。社会の仕組みの改革をゆっくり進め、支配層の人的連続性を保てば、古い仕組みが温存されたり、復活したりする危険が残る。でも、急激な改革を断行しようとして連続性を絶ってしまうと、比較的素人っぽい人間が政策運営に当らなきゃならなくなる。そこに社会的混乱のリスクが生じる。

あるいは、短期間で社会の仕組みを変えることに、過半数以上の合意を得ることって、本当に可能なんだろうか。上に挙げたのよりは弱いかもしれないし、論より証拠に近くなっちゃうけれど、短期間に成功したと目される社会の仕組みの改革(のうち比較的思いつきやすそうなもの)が、実はほとんど過半数の同意さえ得られてないってことを考えるわけ。廃藩置県だとか農地改革とかみたいなのを考えると、わかりやすいと思うんだけど、そもそも社会の仕組みを変えるに当って、どの程度の同意が得られるかなんて、ちゃんと調べてないでしょ。むしろ、廃藩置県なんてほとんど抜き打ちみたいなもんだもの。あるのは、政治的軍事的な力を背景にしたリーダーシップのみ。そういう事例ばかりが目につくってことを裏返していえば、急速な改革に過半数以上の合意が得られる可能性って、実は相当低いんじゃないかと考えることもできそう。つまり、急速な社会の仕組みの改革は、過半数以上の合意は得にくく、A君の主張は実現性が低いという批判を展開するわけだ。


手遅れってこともある:B君への批判

今度はB君のほう。ゆっくり時間をかけたほうがていねいに社会の仕組みを変えることができるというのは、何となく正しそう。けれど、古い仕組みから生じた問題点は、仕組みを新しくすることで、いつでも解消できるものばかりだろうか。もちろん、そうではないはず。ものごとには手遅れということがある。B君の議論では、時間をかければ古い仕組みの悪いところに多くの人が気がついてくれるだろうから、仕組みを変えることへの圧倒的多数の合意も可能だと考えてる。それによって問題が解消するとしているってことは、その間、古い仕組みによる問題点は、さほど深刻化しないという前提が必要だろう。でも、この前提は本当に正しいだろうか、ってこと。

社会の仕組みを変えるっていうのは、いずれにしても楽な話ではない。そういう面倒くさい改革の必要を、社会の構成員の圧倒的多数が納得するような事態って、どんな具合のものだろう。改革派の説得が功を奏した結果によって生じるケースも考えられはする。でも、誰もが改革の必要性を感じずにはいられないほど古い仕組みの問題が広範囲にわたって深刻化した結果そうなっちゃったってケースのほうが、もっとありそうな話じゃないかなぁ。仮に社会の仕組みを変えるのに時間をかけた結果、中途半端であれ問題が改善するなら、完全を期することのできない人間のことだもの、まぁ何もしないよりはましじゃないか、といえないわけじゃない。でも、時間をかけた結果、問題が取り返しのつかないところまで深刻化しちゃったら、そういうわけにはいかない。そう考えれば、A君の主張以上のB君への批判になるだろう。これまた比喩的にいえば、慢性化した生活習慣病みたいなのを思い浮かべればいい。さっさと生活の習慣を改め、飲酒、喫煙みたいなのを止めなきゃダメ、自覚症状が出るようになったら、もう手の打ちようがなくなってたりするのとおんなじ。

たとえば、国連環境計画(UNEP)の報告書(「地球環境概況2000[ググる!]」)によると「90年代後半の大気中の二酸化炭素濃度は過去16万年間で最高。京都議定書の目標すら達成できそうになく、地球温暖化の防止はおそらく手遅れだ」(日本経済新聞、1999年9月9日)そうな。二酸化炭素排出量は「文明のバロメーター」なんていわれてる。僕たちの物質文明の維持のためには、二酸化炭素の大量排出ってなかなか避けられない。けれど、もし本当に二酸化炭素濃度の上昇が地球温暖化の主要な原因であるとするなら、今のまんまだと、地球上の圧倒的多数が厳しい規制に合意する頃には、僕たちの地球はどうなってるんだろう。う〜ん。やっぱり、さっさと規制(という社会の仕組み)を導入しないとヤバイんじゃないかぁ。と、それはさておき、報告書のことは知らなくても、環境問題の重大さを知っていれば、そいつを使って同様の議論を展開することはできるはず。

もちろん、他のアプローチも考えられる。B君はA君に対して「急激な変化を起こせば、必ず反動が生じ、対立が尖鋭化する」っていってるけど、「緩慢な変化」なら問題になるような対立は起きないのだろうか。仕組みの改革に時間をかければ、むしろ古い仕組みで利益を得ていた既得権層の改革への抵抗のチャンスを増やすことだって考えられる。

たとえば、政治改革とか行政改革とかみたいなものがなかなかうまく行かないのは、さっさと改革を進めないからじゃないかと見ることもできる。のんびりやってるから「抵抗勢力」に力をつけるチャンスを与える結果になってるってこと。一般に既得権層のほうが新しい勢力よりも社会的に力のある立場にあることが多い。だから、強いリーダーシップが存在しない状態で、小田原評定式にズルズル社会を変えようとすると既得権益層につけ入る隙をいっぱい与えることになる。社会のあっちこっちで小さな対立が持続し、それ自体社会を疲弊させ、多くの犠牲を生む可能性も考えられる(幕末の日本の混乱みたいな感じかなぁ、幕府と薩長どっちが抵抗勢力なんだかよくわかんないとこもあるけど)。いずれにしても、既得権層とか抵抗勢力とかががんばっちゃうと、B君がいうような「圧倒的多数」の合意はどんどん取りつけにくくなることはたしかだろう。つまり、圧倒的多数の合意を前提にした社会の仕組みの改革も、実は実現性が低いものだとする論考だってできちゃうかもしれない。


何だかこう考えてくると、早い改革もゆっくりした改革もダメなんじゃないかって気がしてきちゃうけど、別にそういうわけじゃない。確認しとくと、本当は社会の仕組み一般の変え方があるわけじゃなくて、その社会の特殊性、そのとき置かれた状況、問題となってる制度のそれぞれを具体的に考えないと、急速な改革と漸進的な改革のどちらがいいかはわかんない。実際には、その都度両方のトレードオフみたいなことを考えて、最適解と思われる改革のスピード、合意の範囲を模索するっていうのが正しいってことになるんじゃないかなぁ。

逆にいえば、何がなんでもツッコミを入れなきゃいけないときには、そういう具体的現実を少し離れてみることが重要だってことになるかもしれない。解説部分では話をわかりやすくするために、具体例もかなり無理して入れてみた。でも、まず覚えておきたいのは、そういう具体例よりも相手を批判するのに必要な議論の枠組を考えることだ。ものは云いよう、枠組を決めた後でも具体例などいくらでも見つかってしまうものだったりするのだなぁ。うーん。


解答例(その1)

私はA君の立場を支持する。圧倒的多数の合意と期間をかけた社会の仕組みの変更は、半端な改革に留まるどころか、改革を手遅れにしてしまう可能性もあるからだ。

社会の仕組みを変えることに圧倒的多数が同意するには、旧来の仕組みの問題点が誰の目にも明白になる必要がある。つまり支持が得られる頃には、旧来の仕組みによる犠牲が相当のものになる必要がある。加えて問題の解消には、仕組みの変更から一定時間の経過が必要なことは多い。すると合意獲得までに生じた損害は、さらに一定期間期存続することになる。場合によっては取り返しのつかない犠牲、つまり変更の手遅れを招く危険さえ持っている。たとえば地球温暖化問題を考えてみるとよい。温暖化緩和には、原因と見られている二酸化炭素の排出量に厳しい制限を課す社会の仕組みの変更が必要である。一方二酸化炭素排出量の削減は、私たちの文明生活に大きな影響を与えるものであり、人類社会の圧倒的多数の支持を獲得するのは困難である。現に未だ全世界的な合意は得られていない。だが、1999 年に発表された国連環境計画の報告書によれば、温暖化対策はすでに手遅れ段階に入った可能性が高いのだという。

このように考えてみると、社会の仕組みを変えるためには、強いリーダーシップによる素早い変革が不可欠だといわなければならない。B君の語るような変え方は、きわめて大きな犠牲を要するものなのである。


解答例(その2)

B君の立場を採る。A君の主張する仕組みの変え方は、人間の知力を過大評価するものだからだ。現実には、過半数の同意を前提に短期間で、しかも犠牲なく社会の仕組みを変えることなど、ほとんど不可能なのである。

ここで問題になるのは、本当に新しい仕組みが古い仕組みの問題点を解消し、新たな問題を生じない保証が可能かということだ。このことは社会の規模が大きくなるほど深刻である。強いリーダーシップの下で短期間で犠牲の少ない改革を成功させるには、社会の複雑多様な要因を過不足なく考慮した仕組みの立案が必要になる。だが、大規模な社会では考慮すべき要因は、人間の勘案できる範囲を越える可能性がある。そのため、大規模な社会では、新しい仕組みが完璧だとはほとんど期待できず、問題解決の困難や新たな問題発生に出喰わすことになる。結果として生じる犠牲の解消のために時間をかけた仕組みの微調整が不可欠になるのである。IMF主導で行われる途上国の短期の経済改革がしばしば社会的混乱を招くものとして批判を浴びるのも同様の事情によっている。社会という文化複合体の持つ条件を完全に勘案した、完璧な仕組みの提案はほとんど不可能なのである。

A君の主張する社会の仕組みの変更は、神ならぬ人間にはきわめて困難なものであり、現実的ではない。社会の仕組みを変えるにはやはり一定の時間が必要になるのだといわなければならない。


反社会学講座 (ちくま文庫)
パオロ マッツァリーノ
筑摩書房
売り上げランキング: 27,714

『つっこみ力』(ちくま新書)の著者デビュー本の文庫化。ツッコミのおもしろさは、この文庫のほうが冴えているという感じ。


(本エントリーは、昔使ったネタのリライト版になっている)


  • 注1 だったと思うんだけど、イマイチ記憶に自信がない。
  • 注2 皮肉だよ、真に受けないでね
カテゴリー: 文章讀本
著者: nean
文章術―「伝わる書き方」の練習 (角川oneテーマ21)
樺島 忠夫
角川書店
売り上げランキング: 367,916

※ 現在は、Kindle版のほうが入手しやすいようだ。


樺島忠夫[ググる!]『文章術—「伝わる書き方」の練習』は、本当に全然書けない、あるいは書けても短い文章しか書けない人たちにも薦められるよくできた文章術本になっている。

『文章術』が優れているのは、著者の長年の文章教育研究の成果が非常にコンパクトにまとめられているところ。しかも、本当に書けない人の問題点がよく研究されていて、新書という非常にコンパクトな判型なのに、学習手順も明確に示されている。限られた時間の中で消化できる練習問題主体に書かれている点も、副題にある「練習」という言葉が単なる飾りにはなっていないことを示している。通勤・通学時間を活かして文章術の基礎を身につけたい人には打ってつけの入門書だといえそうだ。

世の中で話題になる文章読本類を見ていると、読み物としては興味深くても、あまり読者の文章力を伸ばしてくれないのではないかと感じてしまうことが多い。著者の経験則やコツのご開陳にとどまっているからだ。もちろん、そうしたものが有益なことだってあるには違いない。でも、コツの列挙からの効率的な学習はむずかしいものだ。結局のところ、読み物としてはおもしろくても文章作成の実践に全然結びつかないまんまに終わってしまう。

ところがこの『文章術』は、的確に情報を伝達するために必要な注意点を、初学者に必要なプライオリティを考えた形で徐々に提示してくれるものになっている。さすがベテラン研究者が書いただけのことはあるというところ。さらに、多くの文章読本類がほとんど忘れているかに見える演習問題さえついている。「練習」という副題に偽りなしなのだ。これは新書版の文章読本としては特筆に値することではないだろうか。

問題はほとんどが選択肢の形で提示されている。書かないんじゃ文章の書き方を学ぶには不足だろうと感じる人だって出てきそうだ。でも、書けないで悩んでいる人に、いちいち文章を書かせるようでは初学者向きのテキストにはならない。大切なのは、まずそこで著者が提示する考え方を実践的に確認できるかどうかだ。確認できて「なるほどなぁ」と思えれば、必ず書くときに筆者の考えは頭の中によみがえってくるだろう。学習における演習とは、知るべきことを頭に定着させられるものでなければならない。そういうところがよく考えられた問題になっている。

新書の性格を考えれば、この書も交通機関の中で読まれる可能性が高い。初学者でなくても、いちいち文章を書かなければならない演習問題では、読者はせいぜい目を通すだけというのが関の山だろう。問題そのもののできがよくても、実際に書くことを要求するようなものばかりだと、現実には無意味な埋め草になりかねない。選択肢問題を使って文章作法のコツを呑み込ませようというは、新書という版形を考えれば、非常に実際的なやり方なのである。そういう点でも、この本はよく考えられているといえそうだ。だから、電車の中でしか本を読んでる暇はネーぜという人だって文章作法の実践的な勉強ができる。

多くの文章読本は、そういう学習手順の面倒を見てくれない。したがって、読んだ努力と時間は、なかなか文章力へと結果しない。この『文章術』の読者なら、自分の書く文章への反省点、改善の目安が、かなりの程度具体的に見えてくるようになるだろう。そして、人の書く文章への批評眼だって身につけられるかもしれない。そういうのって、なまなかな文章読本の書き手にはできなかったことだ。

もし問題があるとすれば、例文・例題がやさしすぎることかもしれない。基本的な考え方を学ぶのに適切な例が選ばれていることは疑いない。ただし、やさしすぎる話題の取り上げ方が読者の学習意欲を損ねる可能性はあるかもしれない。多くの初学者にとって、この『文章術』から学べるものは多いはずだけど、この点にかぎっては読者の奮起に期待するしかないかもしれない。


なんにせよ、樺島忠夫といえば文章教育研究者としては有名な先生だ。関連著作も多数にのぼる。こういう人の考え方は、もっと知られていい。


巷間、教育における国語力の強化といったことが喧伝される。でもそこで話題になるのは、単語の意味がわかってないとかちょっとした語法が間違ってるとか、子どもたちの言葉遣いのトリビアルな揚げ足取りみたいなことばかりだ。つまり、みんな思いつきでものを云ってるにすぎない。『文章術』をていねいに読み進めれば、そんないい加減な思いつきよりも、国語力を身につけるに当たってずっと重要なことが見えてくるように思う。そしてそれが、トリビアルな言葉の矯正の努力以上に、言語生活への深刻な反省なのだと気づく人も出てくるに違いない。

文章術―「伝わる書き方」の練習 (角川oneテーマ21)
樺島 忠夫
角川書店
売り上げランキング: 367,916

現在、紙の新本は流通していないみたいだ。今なら代わりにKindle版を利用することになるだろう。それでも、スマートフォンやタブレット型端末を利用しての読書も新書と同様の形を採るのではないか。とすれば、上にあげた新書の読まれ方をよく考えた書き方のアドバンテージは相変わらず揺るがないものとみていいだろう。


カテゴリー: 見る
著者: nean

いつまでたっても書けないという人と話をしていて、ついイライラしてしまうのは*1、その人の関心というか価値観というか、大風呂敷を広げていえば世界観みたいなものが見えないというときだ。何かアドバイスしても、「それって偏ってませんかぁ?」みたいな反応が返ってくる。率直にいうけれど、《偏らず公平なものの見方を心がけなければならない》とは、それなりに偏っているかもしれない自分の見方があったうえで初めて意味を持つ。自分なりの偏りさえ持たない者にとっては、何の意味もない言葉なのだ。そのへんをちょっと確認してみよう。

図と、その説明文を手がかりとして、「客観」ということについて、あなたの考えを述べなさい。(300字以内)
20150619122655

通常「客観的」とは、対象の属性(この際「性質」と見ておいて構わないっす)を忠実にとらえることと理解される。この図はよく知られた錯視の一例である。この場合、平行線A、B に対してabcd は一直線上にある。しかし、だれの眼にもabcd が一直線上にあるようには見えず、abc'd' の方が一直線に見える。abcd が一直線であるという事実の方を客観的事実とみると、だれの眼にも一直線上に見えるという事実の方はどうなるのであろうか。

香川医科大学で出題された、ちょっと古い小論文問題だ。いきなり自分なりの「客観」についての意見を述べなさいというのではなく、「図と、説明文を手がかりとして」とあるところに一応注意してほしい。

ものを見る人(主体、主観、Subject)が対象(客体、客観、Object)を決める!

「説明文」そのものには難読箇所はないだろう。

ここで、もし説明文にあるように《abcd が一直線上にあること》が「客観的事実」であるとすれば、一体何を対象とした場合の話になるだろう? これは問題なく提示されている図を対象とした場合の属性として理解できるだろう。

ここで大切なのは、説明文末尾の《だれの眼にも一直線上に見えるという事実》だとされているところ。つまり、人の視覚を対象とした場合の、錯視という客観的な事実として捉えられるということだ。たしかに、「abc'd' が一直線上にある」っていうのは勘違いなんだけど、ヒト(の視覚)は、この図を見たときに勘違いするという性質を持ってるということ自体は事実であるに違いない。

簡単に整理すると、以下の表みたいな感じ。

 対象  性質 
 提示された図  abcd が一直線上にある 
 人の視覚  abc'd' が一直線上にあると見えちゃう 

客観的事実を導き出すためには、まず何か対象がはっきり決まってないきゃいけないというあたり、これで何とかわかるだろうか。何を対象にするのがかわからない段階では、そもそも何の性質を調べればいいんだかわかるはずがないのだ。

対象を決める要因とは、では何だろう?

これは当然、ものを見る人、観察者の判断だよね。観察者は、しかじかの対象の性質を知ることに、何らかの意味、価値を見い出して、そいつを調べてみようと考えるわけだ。ここで「何らかの価値があるって考える」ってことは、ちょっとトリッキーな云い方に思えるかもしれないけれど、観察者の「主観」だといえる。観察する人が主体的に「見よう」と判断しない限り、どんな「客観的事実」、「客体(対象)の性質」も浮かび上がってこないわけだ。

とすると、僕たちが「客観的な事実」として受けとめているあれやこれやの知識も、その根本をたどっていくと、そいつを見い出した人の主体的判断、主観が存在していたはずだ、ということになる。

つまり、説明文が語っているような「客観的事実」の成立には観察者の対象を決定する「主観的判断」が不可欠だってことになるわけだ。ちょっとトリッキーな感じがして、すぐには呑込めないって人も出てきそうだけど、理屈はそんなに複雑じゃないし、哲学的にむずかしい話をしているわけでもない。落ち着いて考えてみて。

図形や幾何学にもっぱら関心を持つ者ならば、まず示された図に目が向かうはずだ。それに対して、人間や人間の視覚に興味を抱く者なら、その図を人間がどのように見るかを正確に捉えようとする。それは別に不自然じゃないでしょ? 「客観的な事実」が見出される根底には、その事実を見出した人の関心=観点、いいかえれば主観が不可欠な要素として働いている、ということになる、でしょ?

何で、こういう問題を取り上げたかっちゅーと、ものを見つめ、考えるためには、自分なりの問題意識が必要じゃいということを強調したかったから。ただホゲラーとものを見てたって、考えるべきあれやこれやがどっかから降ってくるわけじゃぁない。だから、当然のことながら自分なりの文章がスラスラ書けちゃうなどということもない。

虚心坦懐、観察の権化みたいなチャールズ・ダーウィンでさえ"Let your theory guide your observation"なんて云ってたりする。あらかじめ一定のものの見方をもって観察しなきゃ、ろくな観察はできやしねーよ、ってわけだ。

もちろん、観察した結果、もともと自分の抱いていた観点や関心に修正を加えなきゃいけなくなることだってあるし、主観で対象の性質を歪曲していいって話をしてるわけでもない。でもとにかく、ものを見、考えようとするなら、とりあえず自分なりの関心をもって世界に対峙しなければダメだってことだ。ホントに云いたかったのはそれだけなんだけどね。

以下、とりあえず、最初の問題の解答例。別にこれ以外の答えがないなどとは考えないけれど、まぁ、ここまで述べてきたことをまとめてみるとこんな具合かな、というところを掲げておく。

客観とは、事実を捉えようとする人の主体的な取り組みに応じてあらわれるものだと考えられる。abcdが一直線であるという客観的事実が成立するのは、図に関心を寄せ、対象とし、その属性に忠実であろうとした場合である。それに対して、だれの目にもabc'd' が一直線に見えてしまうという事実もまた、人間の視覚に関心を寄せる者にとって、錯視現象というそれ自身興味深い客観的事実として捉えられる。ただ漠然と眺めるだけでは、何ら意味ある事実は見えて来ない。観る者の関心の深さに応じて、世界が持つ意味を知ることができるのだ。このような意味において、客観は観る者の主体的なあり方に支えられているといえるのである。


客観性の刃―― 科学思想の歴史[新版]
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  • 注1 すみません、人間ができてないもんで。はれほれ。

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