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(最終更新日時:2011-09-20 04:36:30)  

PREP方式のメモをとる

 センター試験前ともなると、小論文対策に全然手が回らなくなっちゃう。でも、小論文対策の不足に大きな不安を抱えているという受験生って多い。時間がとれないんだからしょうがない、だけどやっぱり気になる――そういう人は一度PREP式の短い文章を書いて、頭の回転具合をキープしておけばいい。
 受験生でなくったって、いくらか理路の通った文章を書きたいと考えている人なら、その基礎訓練みたいなつもりでPREP方式のメモ、文章作成にチャレンジしてみるのと、結構有益なんじゃないかと思う。
「PREP方式」という言葉に馴染みのない人もいるかもしれないけれど、一部の公立中学なんかでも行われている短い文章を論理的にわかりやすく書く方法のこと。手っ取り早くいえば、三角ロジックとパラグラフライティングを組み合わせた書き方のことだ。

 PREP以下のような順序と構成で文を書き進める。長い文章を書くのであれば、それぞれに1段落を当てることになるけれど、手短な思考メモとしては、それぞれに1文ないし2文程度を当てればいい。それで200〜300字程度、1段落の文章にしてみるという程度のことならさしたる時間も取らないだろう。過去問なり気になる話題なりについての自分の考え方を、そういう形で1日もしくは2日に一本まとめてみる。あるいは、自分の考えなんぞ書く暇もない(なんてことは、ホントのところ滅多あるわけないんだけれどね)という場合には、現代文の評論問題なり過去問の課題文なりを、この形に構成しなおしてまとめてみる。
  1. point……主張
  2. reason……理由
  3. example……事例
  4. point……主張
 面倒くさければ、「主張」、「理由」、「事例」を語句レベルのメモにするだけでも、ま、いっか。何もしないよりはずっといいと思う。文章にまとめるにしても、「理由」と「事例」に関しては、自分の好みで順序を逆転させても構わないだろう。で、センター試験を終えたら、たまったメモの詳述化を試みてみるべし。それぞれの部分を1段落の長さになるように詳述すれば、600〜800字程度の小論文は比較的簡単に仕上がる。

 できれば、同じようなメモをとっている友人と、同じ問題に対するメモを見せ合って、相互に軽いツッコミの入れ合いなんぞができると理想的なんだが、なかなかそいつはむずかしいかなぁ。「主張」そのものではなくて、「理由」「事例」部分でそういう遣り取りができると、自分の考察に不足しているものがはっきり見えてくるもんだ。

三角ロジックとPREP方式

 知っている人には問題なくわかるだろうけれど、「主張」「理由」「事例」はそれぞれ三角ロジックの、「主張(クレーム、Claim)」「理由付け(ワラント、Warrant)」「客観的事実(データ、Data)」に相当する。「主張」を冒頭と末尾で反復するのは、パラグラフ・ライティングの段落の仕上げ方と同じだよね。

 三角ロジックについては、Wikipedia日本語版「IMRAD」の項に出ている説明がわかりやすい。PREP方式の、「主張」「理由」「事例」がどんなものかもだいたいの見当はつくと思う。
……比較的ポピュラーな『名探偵コナン』の場合で考えてみよう。この作品では、まず、何か事件が起こる。次に江戸川コナンは(誰かの口を借りて)「犯人はお前だ」というつまり、これが結論である。しかし、犯人とされた人間はだいたいとぼける。しかも、高木刑事あたりにいたっては「まさか」と異を唱える。そこで、コナンは証拠物件を挙げるが、これだけでは、読者もよくわからない。つまり、根拠となる事実というのは、それ単独では結論を支持しているかどうかはおおよそわからない。そこでコナンはその証拠物件が、証拠物件たり得ていることを、多少強引ながらも延々と説明していく。これが、推論過程である。

IMRAD - Wikipedia「IMRADと論理の三要素」

 「こいつが犯人だ」=「主張」、「証拠物件」=「事例」、「理由」=「推論過程」と整理できるでしょ? 上の説明の順序にしたがってまとめると、こんな感じかしら。PREPじゃなくてPERPになっちゃったけど。
 こいつが犯人である(P)。それはこの証拠をみればよろしい(E)。この証拠はかくかくしかじかといった具合でこいつが犯人である疑いの色濃いことを証している(R)。だからして、こいつが犯人なのだ(P)。

 より長い文章、より厳密なロジックを求める難関校の小論文対策が必要なら、あるいは三角ロジックの論理性の甘さが気になる人なら*1トゥールミン・モデル(Toulmin model)を勉強してみるといいかも。ネットだとちょっとヒドイ説明もあったりするんで、身近に詳しい先生がいらっしゃるといいんだけれど。書籍でもなかなかちゃんとしたのがない。ネットで、ということになると、The Toulmin Project Home Page あたりが簡潔で便利だし信用できる。まぁ英文なんでってのがアレだし、高2くらいから読み始めるというのが得策なのかもなぁというところなんだけれど、意図的に易しめの英語で書かれているみたい。習熟度チェックの試験問題付き。そこいらへんが苦にならないようなら、チャレンジしてみる値打ちはあると思う。英語がよほど苦手だというのでなければ、見かけほど大した苦労はないと思うよ。

 PREP方式の詳細についてさらに知りたければ、各自ググってみるべし。
ビジネス系の記事が多くてげんなりするかもしれないけれど、逆にいえば、こういうロジックの構成は現実に通用するもんだということでもある。使い捨ての受験用テクニックみたいなもんとは違うってことだ。

議論のレッスン (生活人新書)
Amazon bookmark with Amab.jp on 10.11.15
日本放送出版協会 (2002-04)

 受験とは直結したもんぢゃないけれど、三角ロジック+αあたりを知るには有益かも。

The Uses of Argument
Amazon bookmark with Amab.jp on 10.11.15
Cambridge University Press (2003-07-07)

 トゥールミン・モデルのトゥールミン*2が書いた原典。だれかさっさと翻訳してくれればいいのになぁ。ぶー。

  • 注1 世の中には三角ロジックで充分に論理的に議論が尽くせるかのように書かれてるアレコレが出回っていたりするけれど、三角ロジックでは確証バイアス(confirmation bias)が避けがたい。また理由付けそのものの正しさに裏付けが充分あるのかの検討が必要になることだってある。三角ロジックに三角ロジックを重ねるだけでは、これらの問題は充分にはクリアされない。
  • 注2 Stephen Toulmin(1922-2009)、昨年暮れに亡くなったんだよなぁ。Toulminの名前をさんざ利用してきた連中、全然触れもしていなかったけれど。


(最終更新日時:2010-05-16 01:45:57)  
 先のエントリ、「『わかりやすさ』の陥穽と僕たちの『情報視力』の問題――だれもが最悪の知識人になれちゃう時代」(Garbage Out!!) では、ダイジェスト化されている情報の気になるところについて書いた。別にダイジェストそのものが悪いってわけじゃない。僕たちの多忙な生活を考えるとき、むしろダイジェストは必要不可欠なものなのだ。けれど、どうもダイジェストの基本である要約の技術って、必ずしも人々に共有されているようには見えない。何となく重要そうなポイントを拾い上げて適当にくっつけてやり過ごしていると見えるケースが多いみたい。

 でも、要約の基本的な目の付けどころは、少なくとも実用文の場合、割とはっきりしている。多くの閲覧者が共通経験を持っているであろう大学受験向きの要約の基本をまとめた小冊子を昔作ったことがある。そいつをここであげておく。
 実はもともと公開していたサーバのほう、どうも503エラーが多くてダウンロードできんぞ! って話があったんで、公開場所を変更するついでに、このエントリを書いていたりするだけなのだがぁ(^_^;

 問題などはもうずいぶん古くなっているし、今ならもうちょっと違った説明をするかな*1というところもあるし、これイッチョで要約は完璧という結構な具合にもなっていないんだけれど、とりあえず要約の基礎を知るには悪くない冊子になっているんぢゃないかな、と自分では思っている。なぜこの言葉を取りあの言葉を捨てたのか、そういうところは市販の現代文参考書よりは具体的に説明するよう心がけた。
 要約のお作法の細かなところは、領域・業界さんによって多少の違いがあるみたいだし、大学受験でもいろいろな「方法」なり「テクニック」なりを唱える方がいらっしゃるから、そこいらへんとの違いはテケトーに読み手で考えておいてほしい。ただまぁいずれにしても基本を愚直にまとめるとこうなるってところはご理解いただけるのではないかと思う。便利に使っていただければありがたい。

使用上の注意

 僕の書いた解説部分はGFDL(GNU Free Documentation License、GNU フリー文書利用許諾契約書)にしたがって使用していただければ結構ということにしてある。今ならクリエイティブ・コモンズ・ライセンスにしてたかなぁ。GDFLの英語原文は冊子末尾にある。日本語参考訳はGNU フリー文書利用許諾契約書 - GNU プロジェクト - フリーソフトウェア財団 (FSF) を読まれたし。内容のあらましについてはGNU Free Documentation License - Wikipedia など参照のこと。
 本当はLaTeXのソースも公開したいところだけれど、残念ながら火災の折にPCごと焼失してしまったので、そいつはできない。PDFには変なプロテクトの類をかけていないので、形を変えて使用したい場合はコピペなどされたし。ただし、引用部分については改変は許されない。そのへんはくれぐれもお忘れなく。
 本冊子中に書かれている『小論文の道具箱』は2005年春に、いろいろあって閉鎖した。メイルアドレスも現在ではなくなってしまったfreemailのものしか書かれていない。訂正すべきところや感想などあれば、このエントリのコメント欄か、メイルフォーム に書き込んでほしい。再配布なさる際には、そこいらへんのことも忘れずに伝えていただけると幸甚。
  • 注1 とくにトゥールミン・モデルのことなんかは絶対に触れることになるだろうなぁ。


(最終更新日時:2010-03-13 15:07:18)  
 僕らが日常的に耳目にする情報って、そのほとんどがわかりやすいダイジェストにすぎない。何かと忙しい世の中だもん、それは歓迎すべきことではあるのだけれど、一方で僕たちの判断を危ういものにしているんじゃないだろうか。判断が危うくなっているだけでなくて、情報を見る視力だって衰えているのかも。で、この傾向は避けがたいものであって、コイツとの長いお付き合いの仕方について考えとかないとダメなんじゃないか。という面倒臭いお話。

僕はもともとヤマザキパンが苦手なんだけれど……

 「パンがカビないのは添加物が入っているから?」(シルフレイのふたり言) 長村洋一「『ヤマザキパンはなぜカビないか』論に見る一般人に対する騙し行為」(PDFファイル) を読みながら、なるほどこれはひどい話だと思いつつも、この程度のガセには、たぶん自分も日常的に騙されているのではないかとも感じた。
 話のポイントは、それぞれのエントリタイトルを見れば見当がついちゃうと思うけれど、『ヤマザキパンはなぜカビないか』という書籍には、《ヤマザキパンには防カビ剤が使われていてそのせいでカビないんだ、でもってその防カビ剤ってのは発ガン物質なんだぜ、こわぇー》ってな話が登場するけれど、そいつはガセだぜってところ。どういうふうにガセであるかについては、リンク先を読んでみればわかることだし、さしあたりここでの話のポイントはそこにはないし、まとめなおすのは面倒臭いので(^_^;省く。詳しく知りたい方は、とくに長村氏のアーティクルを読むといい。科学に疎い僕でも、うーん、こいつぁひでーやと唸るに足りる話がていねいに綴られている。あとに書くことになる論旨からして、ここでダイジェストにしてまとめることは控えておくべし、ということにしといたほうがもっともらしいかぁ(^_^;
 ヤマザキパンそのものについては、率直なところ自分の口には合わないので、カビ具合の如何にかかわらず積極的に買うことはない*1。でも、この2つの記事が語るところを読むかぎり、エラい言いがかりをつけられたもんだなぁ、といささか同情したくならないでもない。でも、それ以上に気になったのは、仮に科学的思考態度をそこそこ身につけていたとして、こうしたガセにひっかかることなく僕(たぶん「僕ら」としてもいいんじゃないかなぁ)は、日常を送れないのではないかということだ。そして、それはたぶん僕らが日常的に受け止める情報がわかりやすいダイジェストになっていて、そういう情報を受け止めることにすっかり慣れっこになっているからじゃないか。

僕らの情報の受け止め方って……

 こういう話はたいがいの場合、まず口コミやブログ、テレビ、雑誌の紹介で僕たちの耳目に触れることになる。話の概要だけが伝わり、「へぇ、××パンって怖いのね」となる。どれほどのヒトが問題となる書籍に目を通すかといえば、結構覚束ないんじゃないかしら。日常的に信頼できるヒトの話だったら、有名ブロガーのエントリだったら、往時と比べれば衰えたとはいえそれでも何がしかの権威を担うメディア経由の話だったら、そういう話を疑ってかかることはないんじゃないかしら。もともと食品の安全性に高い関心があって、ガセの多さにうんざりしているなんてケースででもないかぎり。とりあえず「××パンは危ないみたいだから、今日から◯◯パンを買うことにしよっと」と、採るべき対策もはっきりしていて、詳細情報を求める必要は、少なくとも日常的な行動に関してはなさそうだもん。
 さらに、多少関心があって件の書籍に目を通したとして、そこそこの科学的思考態度を持った読者でもではこの「一般人に対する騙し行為」に気づくかどうか。気づかないヒトが結構多いんじゃないかなぁ。こうした一般向けの書籍の場合、多少のデータが登場してくるからといって、研究論文じゃないんだもん、詳細にわたる実験データなんかは掲載されないのが当たり前になっている。結論に直結するヤツだけを簡単に紹介しているだけだ。そういうのすらないのも多い。そういうのが当たり前ってことになってると、ちらりとくらい実験やその結果と解釈に疑問を感じても、まぁたぶんそこいらへんのちゃんとしたところは省略されているんだろうと、ほとんど無意識のうちに善意の解釈を施して読み進めてしまう。とくに件の書籍の場合、著者が国立大学で化学を修めた人物だなんて知ってしまうと、少々のあるべき記述の欠落は煩雑を嫌っての省略のせいだろう。まさか世間様で受け入れられている(かに見える)話だもの、結論そのものには大過ないに違いない。
 そんなふうに情報を受け止めることって、僕たちの生活の中ではそう珍しいことではないんじゃないかなぁ。

ダイジェストされた情報こそが求められる

 僕たちの生活は、何だかんだいってそれなりに多忙だ。しかもそういう中でより多くの情報を処理することが求められていたりする。そうなってくるといきおいわかりやすい情報に目が向いちゃう。これは仕方のないことでしょ?
 たとえば「気象情報」。これなんかわかりやすい情報の典型だと思う。情報の当たり外れに迷惑を被ったからといって、情報を発した予報士さんがどのようなプロセスを経てしかじかの予想をしたか、誤りの因って来たる所以を検証しようなんてヒトはまずいない、んじゃないかな? そんなことができるヒトなら、「気象情報」なんか当てにせず、自ら「気象通報」に耳を傾けて天気図を書いたりしてるんじゃないかなぁ。ほれ、NHK第二でやってる「南鳥島沖、北北東の風、風力3、快晴、1015ヘクトパスカル、気温12度」とか云ってるヤツ。
 で、そいつを耳にしながら自分で天気図を書いて天気の先行きを自分で考えるってヒトは、趣味人とか予報士志望者とか漁業関係者とか、割とかぎられているんじゃないかと思う。だって、それなりに多忙な生活を送るたいていの人類にとって、「根室では、西の風、風力5、曇り、997ヘクトパスカル、氷点下4度」とかのんびりアナウンスされたって、そいつをどう活用していいかわかんないし、活用できる能力があったって面倒臭いもん。知りたいのは明日の天気。ほどほどに信用できそうな「気象情報」で間に合わせるのが常識ってことになってる。
 一般向け科学書だって、しかじかの研究成果を語るに当たって、その導出されるプロセスを微に入り細を穿つ説明なんかしない。そんなんじゃぁ研究論文読めよって話になっちゃう。紹介されるのは、プロセスの概略だけ。あるいはちょいとおもしろげな思考実験の話や譬え話。プロの目で見ればいろいろ不足があるに違いない内容だって、僕みたいな一般人からすれば煩雑極まりないくらいなんだもん。だから、細かなところは省略されているってのは、こうした書籍を読む際の大前提になってるんじゃない? ツッコミを入れるのが大好きだとかいう趣味のヒト以外にとって、そうした本の記述が大雑把なものになっているというのは半ば常識になってるんじゃないのかなぁ。
 裁判に関する報道なんかもそうでしょ? 報道で伝わるのはその概略だけ。傍聴しているとわかる話の細部、証拠の認否をめぐる面倒臭い議論なんか全然伝わってこない。伝えられても読んでる暇なんかないもんね。そういった類の話は、いくらだってある。もう面倒臭いから例は挙げないけど、とにかくそういう情報環境に僕たちはすっかり慣れっこになっているといっていいんじゃないかな。
 僕たちの生活は、さまざまな情報によって支えられている。でも、そうした情報は一次資料からは程遠い、多重に解釈加工が施された末にできあがったものだ。その結果として、情報は僕たちにとってわかりやすくすぐ役立てられるものとなる。で、たいていの場合、情報の信憑性をいちいち検討したりしない。仮にしたとしても、情報源に遡って「長春では、風向・風力は不明、快晴、1022ヘクトパスカル、氷点下15度」まで調べ直したりはしない。そもそもそんな暇はないのだし、多少の暇があったとしても個々の生活には、そうした退屈な検証よりもプライオリティの高いあれやこれやがいくらでもある。信憑性は、情報の受け手の科学的思考云々よりはるか以前の段階、たとえば、日常経験と目立つ矛盾がない/少ないとか、もっともらしい言葉遣いが用いられているとか、情報の発信源にそこそこ一般的な信頼が寄せられている(らしい)とか、あるいは単に話としておもしろいとかいった、曖昧模糊とした基準によって、ほとんど無意識の裡に判定される。決して情報の生産過程になんか踏み込んで考えていないもんだ。だって忙しいんだもん。

見えているものが見えていないぃ!

 情報により多く対応することが生活を豊かにし、社会的地位を高めることにつながる僕たちの社会では、そこいらへん、相当の程度において避けがたいんじゃないかなぁ。で、そういうのに慣れっこになっていると、実は情報の生産プロセスを怪しんで然るべきようなデータにだって鈍感になる。『ゲーム脳の恐怖』の内容なんか、ちょっと注意して読めば素人目にだって胡散臭さの伝わるようなものだったよねぇ。でも実際のところ、データはほとんど読み飛ばしにされてるんじゃないか。データなんかはそっちのけで、データの解釈と考察の結論だけが読まれる。つまり読み手の側で情報をダイジェストしちゃうわけだ。『ゲーム脳の恐怖』の流行とはすなわち「ダイジェスト脳の恐怖」とでもいうべきものだったんじゃないかなぁ。で、そういう例もひょっとして増えていやしないだろうか。
 たとえば、とある学習塾*2のサイトでは、《合格への手ほどきは特にしていない。なのに小6生の約9割が麻布中、武蔵中などの「一流校」に合格する。そんな驚きの塾がある》なんていう自分のところの有名週刊誌による報道例を取り上げている。ところが、「2009年度受験合格情報」、「2008年度中学受験合格情報」というページを見ても、全然9割になんかなっていない。で、「2007年度受験合格情報」を見てみると、
20100312154658
なんて数字が出ている。すげー、ちゃんと数えてみると合格率は10割を超えている!*3 「最終更新:2009-04-22 (水) 16:37:09」というページにあるタイムスタンプを信じるかぎり、もうすぐ1年が経とうとしているわけだけれど、その間、訂正が入らなかったわけだ。実は昨年12月には某有名テレビ番組でこの学習塾が取り上げられ、おかげで今では定員いっぱいの大盛況なのだが、こういうデータに訂正が入っていないということは、取り上げた番組スタッフも、番組につられて子弟を塾に通わせている親御さんも、この「誤り」に気づかなかったということなのだろうか。ページに付された個別ページのカウンタを見ると、相当数のヒトがこいつを目にはしているはずなのだが。
 あるいは同じ学習塾の、一昨年暮れに発売された子ども向け教材には、《この教材は小学生の中学年・高学年向けに作られているが、中学生にも使える》との旨のボスの署名によるはしがきがある*4。発売当初の教材の帯には「中学受験もおまかせ!」と書かれていた*5。ところが、塾のウェブページによれば、塾ではその教材を「受験をしない6年生・中学生」に使用している旨の記述がある。中学年はすっぽ抜けてしまっているわけだ。
 その塾とボスが刊行している教材や書籍は、塾のウェブで公開されているデータを信じると、塾の指導とは直接関係のないものを含めてもたかだか13冊。取り上げた番組スタッフは、ウェブの記述とそういう書籍に目を通していないなんてことはまさかないだろう。親御さんだって……。諸般の事情により論評は避けるが*6、もし目を通していたのに気づいていないとすれば……とあれこれ考えるところはあるが、とりあえずここでは書かないというか、¬‖★◎▼°¨々≦×≠∋∃⌒∬……

 細かなあれこれはさておき、とにかくデータが提示されていたとしても、それを見てなおかつ見ていないって事実、ちょいとくらい驚いてみせてもバチは当たらないだろう。

 と、万事こういう具合で、教育という個人的にも社会的にもきわめて重要なところであってさえ、データとなるものを目にしてなお実際にはそれを検討することなく受け入れてしまう習慣が僕たちにはついちゃってるんじゃないかしら。テレビ番組や大手出版社という権威が背景になければ、気づかれたかもしれない矛盾に、たいていの場合気づかない。見えているはずのものが見えていない、それが、僕たちの現在の「情報視力」の現在とでもいえちゃうテイタラクなんじゃないのかなぁ。うーん。

だれもが「最悪の知識人」になり得る時代、かもなぁ

 こうした問題は、上に述べたみたいに、まずは情報の受け手として気になる話ではある。でも、ブログだとかTwitterのある時代、だれもが情報の発信者足りうるって事実を考えるときにだってすんごく気になる話になってくる。
 話は飛ぶが、たしかハイエクだったっけかがその知識人論の中で*7、最悪の知識人として学校の先生を挙げていたのを目にした記憶がある。ひょっとすると記憶違い、勘違いが混入しているかもしれないんだけれど、おおよそ《一次資料と格闘する経験を持たず、ブッキッシュな知識をもとに善意からの発言ばかりをするのがイカン》みたいな理由だったと思う。それがハイエクの発言だったか、僕の記憶による捏造なんだか、ちょいとあやふやなのだけれど、論旨そのものは気をつけるにシクはない、これはこれであり得る話ではないかしら。ひょっとするとアテにならないかもしれない書籍による知識を、ただ善意に基づいてヒトに語る、っての、ひと頃の『水からの伝言』が道徳教材として使用されちゃったなんて話をただちに思い起こさせる話だもんね。
 で、僕みたいなパンピーのブログでの発言といったものも、実際のところ、一次資料との格闘なんかこれっぽちもなくて、経験則みたいなあやふやなところか聞きかじり読みかじりの知識をもとに、おおよそ善意に基づいた語りを展開しているにすぎないよね、たいていの場合。おまけに上に述べていたようなかじったあたりに「情報視力」の衰弱があるとすれば、たとえ善意に基づいていたとしても、「語り」がいつなんどき「騙り」に化けていないともかぎらない。他人様の「騙り」を難じていればそれでOKというだけでは済まない、面倒臭いったらありゃしないって話になってくる\(^O^)/。つまり、だれだって「最悪の知識人」たる資格を有しているってのが今の時代なのかも。あちゃー。

結論、打つ手なしぃ!

 では、ここまで衰えた僕たちの「情報視力」みたいなものを回復させる(? もともとあったんだかどうかわかんないよなぁ、考えてみると。うーん)ためにはどうすればいいんだろうか? うーん、そこいらへんちょっと見当がつかない。こうした事態の進行はとどめようのないものであり、コイツとのお付き合いは避けがたいだろう。むしろこれからだって対応しなければならない情報は増えてくるだろうし、そうなってくるとダイジェストの度だって進んじゃうかもしれない。情報がわかりやすい形で提供されることだってすんごく重要だし、一次資料からの問題検討をだれもが短時間でホイホイこなせるような時代がやってくる心配は当分なさそだ。そこいらへんは動かない。で、そういう情報環境に馴染んでしまうと、たぶん「情報視力」の衰えもますます進まざるを得ないのかもしれない。
 専門家の先生方が、出回るガセなんかにちゃんと批判を加えてくださるとありがたいな、とも思うのだけれど、でも、たとえば「とらねこ日誌」 なんか読んでいると、世間からは専門家の先生と目されているはずのヒトビトだって怪しいことがあったりするみたい。冒頭で話題にした『カビない』の著者さんだって国立大学で化学を修めたヒトだったりしたわけだしぃ。うーん。どうしたもんだろうかしら。
 たぶん、せめて視力の衰えに自覚的になること、自分の生活に直接かかわるような重要な判断に際しては面倒臭がらずに然るべきデータを検証すること、誤りを指摘するデータが現れればそれまで信じていたことに固執せず君子豹変すを恐れないこと……そのくらいしか思いつくところがない。もちっと気の利いたいいアイディアはないもんだろうか? 教えて! エラいヒト!


キーボード配列QWERTYの謎
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NTT出版 (2008-03)

 実は僕自身予備校講師時代、坂村 建の著作を信じていて、印字棒が絡んで云々の話を授業でしちゃったことがあるんだよなぁ(^_^;;。テクノロジ一般とヒトの関係を考えるうえでも、いろいろ示唆的に見える話だし、坂村 健の名前は信じて構わない権威でしょ、今だって。一つ二つの誤りだけで坂村 健への敬意は削がれないけれど、でも相当ショックだったし、なるほどおいらも最悪の知識人としての資格が備わっているのだな、と痛感させてクレタ本。でも、こう綴るのもまた、ブッキッシュなネタをそれなりの善意に基づいて紹介しているというあたりに変わりはないんだけどぉ\(^O^)/


 これもブッキッシュな知識の危うさを知るのに都合がいい本。日高敏隆、村上陽一郎、桜井邦朋、鈴木孝夫のような大御所も名指しで批判の対象になっている。桜井邦朋なんかは大学入試小論文課題文でニチベイの文化による虹の色の違いを語るところが出てたから、大学のセンセイん中にだって最悪の知識人の資格を有する方がいらっしゃるってことかもしれん。
 ついでに、物理的な薄さと名著度の割合を考えた場合、これくらい名著度コストパフォーマンスの高い本はめずらしいと思う。問題は買わなくても十数分の立ち読みで一読できてしまうことかなぁ\(^O^)/

気象・天気図の読み方・楽しみ方
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成美堂出版 (2004-07)


天気図の書き方手引―やさしい天気図教室
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クライム気象図書出版部 (1987-07)

 今時分の季節の変わり目なんか、天気図が読めるとけっこう楽しい。面倒臭そうではあるけれど、書けるとたぶんもっと楽しいんだろうなぁ。天気図用の用紙もアマゾンで購入できる。
 もし興味を覚えてお求めの際は、こちらからどうぞぉ(^_^;


  • 注1 でもコンビニのパンって、今やほとんどヤマザキばっかって感じなのがなぁ。
  • 注2 ホントは名指ししたいのだけれど、以前別ブログで批判記事を書いたら、民事訴訟なんかの可能性も匂わせた「抗議」があったんで、申し訳ないがここでは秘す。民事になっちゃうと弁護士さんを自前で雇わなきゃいけないけれど、着手金だってべらぼうだもん。書くべきことの半分も書かず、名指しで批判しないのは、社会的正義に反するとは思うものの、今のカラっけつ状態ではいかんともしがたし。許されたし。無念。
  • 注3 VodkaDriveさんから「塾の合格数に関しては、一人で何校も受験して合格する生徒による水増しかと。優秀な生徒が4〜5人居れば合格率は相当高くなります。これを合格率と言っていいのかは別として」というはてブコメントをいただいたが、合格情報の数字、「※一生徒一校のみ記載」とされていることに注意してほしい。ふつうに読めば、一人の生徒が2校以上合格してもそのうちの一校しか記載していないものととれるはずだ。
  • 注4 塾のウェブページにもまえがきが「転載」されているが、いくつかの文言が発刊当初のものから書き換えられている。
  • 注5 現在は、有名テレビ番組でとりあげられた旨が記された帯に換わっている。ただネット通販のページの中には発刊当初の帯の文言を残しているところもあるみたい。
  • 注6 件の「抗議」の折、顧問弁護士から来た通知書によると《「***」等の販売方針、販売方法は、発売元出版社の判断に基づくものであり、通知人、通知会社とは関係ありません。通知人及び通知会社に対する根拠のない誹謗、中傷は今後一切なされぬよう忠告致します》とあったので、ここでは塾とそのボスが世間にすでに公開している事実だけを指摘しておく。通知人は塾のボス、通知会社は塾になってる。「***」は件の教材名。以上のような具合なので伏字にせざるを得ない。閲覧諸賢のお許しを乞うばかりだ。「はしがき」は、そもそも通知人=塾のボスの名前が付された文章なんだから、文責は出版社じゃなくて通知人にあると考えるのが理論的論理的に根拠があると僕は考えるのだけれど……。うーん。
  • 注7 ホントは出典をたしかめなきゃいけないんだけれど、火事で焼いちゃって確認できん。論考のタイトルさえ記憶していないという具合ですんません。そこいらへん、閲覧諸賢各自で調べといてくださると幸甚。ついでに教えてくださるなら尚可。厚かましくてごめんちょです(^_^;

(最終更新日時:2010-02-27 01:27:23)  
 わかりやすい文章って、考えてみるとすごくむずかしい。知ったかぶりのために難しげな言葉を濫用するのは論外に決まってる。でもね、ってことはやっぱりある。ちゃんと事実を指摘して、理路もしっかり通っているってことはもちろん大切に決まってる。でも、それだけぢゃぁ、ヒトを説き伏せられないってことはザラだ。さて、どうすればいいんだろう。どうしたって、状況を的確に捉え、目的にふさわしい言葉を考えるってあたりが欠かせないんだろうな。という、まとめてみると毒にも薬にもならん当たり前のお話。

わかりやすさのわかりにくさ

 文章を書くとき、たいていの場合、話を伝えたい相手がいる。その相手にどうしてほしくて文章を書くのか。その目的を冷静に考えるとき、どう書けばいいのかが見えてくる。あるいはなかなか見えては来ずに紛糾する。伝えたいことを論理的にわかりやすく書く。それだけで用が済んでしまうこともあるけれど、現実にはなかなかそううまくはいかない。そもそも、わかりやすく書くというのが大問題なんだもん。
 そういうことを考えさせてくれるのが、「専門家と素人のあいだに」(とらねこ日誌) だ。「福岡伸一の幻想を破壊してみた」(ならなしとり) とそれに対する批判をめぐって書かれたエントリ。乱暴を承知の上で思い切ってまとめてしまうと、わかりやすい表現には、しばしば誤解が生じるが、肝心の内容の伝達のためには少々の誤解に目をつぶることがあってもいいのではないかという話。専門家には前提としてある知識が、読み手の素人にはない。だから、そういう知識をちょいと脇において、伝えたい部分をとくに重視してわかりやすい文面を作り上げることも出てくる。どうしたって話の内容には不正確なところが割り込んでくる。そうなると他の専門知識の持ち主から批判を浴びることになる。でも、状況によっては、そういう批判を抑えることが重要なことだってあるんぢゃぁないか。そういう話だ。僕はどらねこさんの遠慮がちな主張にほとんど賛成だなぁ。
 「わかりやすい」というあり方自体、実は一般に思われているほどわかりやすいものではない。難解で複雑なものを平易で単純なものに置き換えればわかりやすくなる、なんて呑気な話では済まない面倒があるんだもん。不正確になるのを承知でいえば(^_^;、コンピュータプログラムのソースコードのことを考えるとわかりやすいかも。C言語か何かで書かれたソースコードはわかりにくい。だからもっと単純な機械語でそいつを表現してみたらどうか。何しろオンとオフ、0と1しかないのだから、これほど単純なことはない。ぢゃぁその機械語で書かれたコード全体がわかりやすいかといえば、もちろんそうは問屋が卸さない。そんなもん、たいていの人類は読まないに決まってる。難解な概念をわかりやすい単純な言葉で正確に解いてみると、むやみに長い説明になっちゃうものだ。当然のことながら、正確さを保とうとすればどうしたって文章全体が長くなる。長くなると、なかなか読んでほしいヒトに読んでもらえないという、文章にとっての致命的な危険もついでに生じることになる。あちゃー\(^O^)/。というわけだ。
 手際よくサクっと読んでもらって、肝心の点だけは何とか伝える。そういうことを考えると、どうしてもアナロジー、要するに譬え話を使うことになる。新しい知識を身につけるとき、ヒトはすでに自分の生活経験で馴染んだ知識と結びつけて新知識を消化しようとする。だから、比較的よく知られている何かに、したい話の構造的な類似を見出して、適当な譬え話をこしらえる。もちろん、本来の話を別の話に置き換えての説明になるんだもん、そこに不正確が割り込むのは、むしろ当然ということになる。話の目的と、そこで要求される正確さのバランスを考えて、言葉のピントの絞り込みを考えるより仕方がない。だから、そういう場合の批判は、ただ不正確だというのではなくて、話の本来の目的に対して正確さが足りているかどうかを考えた上でなされなければならないってことだろう。

ヒトはあんまり理性的ぢゃないかも

 おまけに、ヒトは理性のみで物事を判断しない。感性、感情に流されちゃうことだってある。でも、最も面倒臭いのは、ヒトの、ほとんど自動化してしまった無意識のうちに働く判断だろう。そいつの力を考えないと、理を尽くしたメッセージがまったく逆効果になってしまうことだってある。そいつのせいで、論理的で実証的でついでに正確でわかりやすい言葉だけでは目的を達成できないことだって結構多いのだ。
 最近あちらこちらのブログで取りあげられている本に、ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器』(誠信書房)がある。たしかに、交渉やセールスを思うように展開したいってヒトたちには有益なものだから、評判になるのも当然なのだろう。けれど、読んでいるとあんまりに非理性的なヒトの判断と行動にいささか憂鬱になりもするのだ。まぁったく、どこがホモ・サピエンス、理性のヒトなんだよぉ。
 たとえば、第三章「コミットメントと一貫性」。筆者と同僚の論理学者は、超越瞑想プログラムの勧誘講座を覗きにゆく。友人の論理学者は、そこの指導者を聴衆の前で徹底的に論難論破し、指導者たちも議論の敗北を認めてしまう。
 しかし、私にとってもっと興味深かったのは他の聴衆に対する効果でした。質疑応答の後、二人の勧誘者に対してTMプログラムの参加費の頭金75ドル*1を支払おうとする人が数多くいたのです。彼らが支払おうとすると、勧誘者は互いに肘をつつきあったり、肩をすくめたり、ほくそ笑んだりして、当惑を示しました。彼らの議論はきまりが悪いくらいにはっきりと粉砕されてしまったように見えたのに、その後、どういうわけか嘲笑から不可解なほど多くの承諾を引き出し、会合は成功へと転じてしまったのです。相当奇妙なことに思えましたが、同僚の話の論理を理解できなかったために彼らがこういう反応をしたのだろうと私は考えました。しかし、実際はまったく逆であったことが判明しました。

(中 略)

 同僚の論理学者の指摘を理解していないために申し込みをしたに違いない、私はまだそう考えていましたので、彼の議論のいくつかの点について(引用者注:申し込みをした人たちに)質問を始めました。驚いたことに、彼らは同僚のコメントをとてもよく理解していました。実際のところ、完璧に理解していたのです。まさに同僚の議論の説得力こそが、彼らをその場で申し込む気にさせたのです。私的な団体のスポークスマンが、その経緯を最も的確に話してくれました。「僕は今夜はお金を払うつもりはなかったんだ。今、本当に文無しに近い状態だからね。だから、次の会合まで待つつもりだったんだ。だけど、君の友人が話し始めたとき、お金をすぐに払った方がいいと思った。そうしなければ、家に帰って彼の言ったことをまた考え始めてしまって、そうしたらもう決して*2申込まなくなるって思ったんだ」。

pp.106-8

 何だか変な話なのだけれど、切実に救いを求めているヒトは、むしろ理性的な言葉から逃れてでも救いにすがりつこうとするらしい。いったんすがりつこうと決めかけた一貫性を保とうとするんだそうな。「トンデモ」にハマリそうになっているヒトには、理を尽くした言葉がまったく無力だってこともあるのだ。こちら側に引き戻すためには、どんな言葉を用意すればいいのだろう?
 この本には、さらに『影響力の武器 実践編』なんていう続編がある。そこではさらにヒトの非理性的としかいいようのない話がてんこ盛りで登場する。たとえば……。
 社会的証明のネガティブな効果を調べるために(同時に、もっと効果的なメッセージを作れないか探るために)、われわれの研究者チームは化石の森国立公園から木が盗まれるのを防ぐための看板を2種類用意しました。一つはネガティブな社会的証明の看板で、「これまでに公園を訪れた多くの人が化石木を持ち出したため、化石の森の環境が変わってしまいました」という台詞に、木を持ち出そうとしている数人の来訪者の写真を組み合わせました。もう一方の看板には社会的証明を示す情報は入れず、ただ「公園から化石木を持ち出すことをやめてください。化石の森の環境を守るためです」という台詞に一人の来訪者が化石木を取ろうとしている写真を添え、さらにその人物の手の部分に赤い丸に斜めの斜線が引かれた「禁止」マーク*3を描きました。また、比較対象とするために、どちらの看板も設置しない対照群も設定しました。
 そうして来訪者に知られないように園内の遊歩道に印を付けた化石木のかけらを置き、さらに遊歩道ごとに入口に立てる看板を変えました(看板なしの入り口もあり)。この方法で、看板の違いが持ち出し行為にどう影響するかを調べることができました。
 その結果は、国立公園の管理者を化石にしてしまうぐらいショッキングなものでした。なんとネガティブな社会的証明メッセージの看板が立てられていた遊歩道は、どちらの看板も立てなかった対照群(盗まれた化石木は2.92パーセント)よりも、ほぼ3倍も盗まれた数が多かったのです(7.92パーセント)。これでは犯罪防止どころか犯罪助長対策です。それにひきかえ、単に化石木を持ち出さないよう訴えたメッセージは、対照群よりやや低い数字(1.67パーセント)になりました。

pp.13-4

「社会的証明」というのは、多数の人間が行動なり品物なりを選んでいることがはっきりしている(と思える)こと。つまり、上の話では、「化石木を盗んぢゃうヒトが多い」という看板は、本来化石木盗難防止のためのものであるはずなのだけれど、同時にそういうヒトが多いっていう「社会的証明」をもたらす情報になっちゃっているというのだ。多くのヒトがやっているという情報は、その善し悪しにかかわらずヒトの行動を左右してしまう。しかも、実はこの社会的証明に左右される判断というのは無自覚なものらしい。『実践編』では、ミルグラムの実験を取り上げて、
 社会心理学の研究には、人の行動に影響を与える社会的証明の威力を示すものがたくさんありますが、そのひとつに、スタンレー・ミルグラムのグループが行った実験があります。まず一人の研究助手がニューヨークの雑踏でふいに立ち止まり、60秒間空を眺め続けます。ほとんどの通行人は彼が何を見ているのか気にも留めず、除けて通っていきます。ところが、空を眺める助手の数を4人増やしたところ、一緒になって空を見上げる通行人の数が4倍にふくれあがったのです。
 このように、他人の行動が、社会的影響の強力な要素であることにもう疑いの余地はありません。しかし、ここで注目してもらいたいのは、研究の対象とされた人に、「あなたの行動は他人の行動に左右されますか」と尋ねると、皆、絶対にそんなことはないと言い張ることです。実験に携わっている社会心理学者の間ではすでに有名な事ですが、人は何が自分の行動に影響を与えているのかを自分ではほとんど認識できていません。……

p.3

という。
 ちょっと考えてみればわかることだけれど、「最近、××が増えている。困ったもんだぜぃ」って形のメッセージって、世の中に満ち満ちているっていってもいいくらい。さすがに最近多少は下火になったかもしれないけれど、「少年犯罪が増えている。近頃のガキどもには困ったもんだぜ」みたいなヤツ(まぁコイツは明らかな事実誤認なんだもんなぁ)。もちろん、そういうメッセージは、××がますます増えればいいと考えて発せられたわけではないだろう。でも、そういうメッセージが現実にはどんな影響を与えるのかを考えたとき、仮に「増えている」ことが事実だとしてもあんまり声高に喧伝するのは賢明を欠くということになるってことになるかも。むしろ、そういうメッセージの看板を下ろしてしまったほうが、いっそ社会のためなのかも。そういうアレって、いろいろあるでしょ? 変な社会的証明に加担しないように、ここでは例挙を控えておくけれどぉ。
 まぁ『影響力の武器』とその実践編にはその他あれこれ、この手の話が満載で、武器ってよりも「影響力の罠」といったほうがいいんぢゃないかって気がしてくる。うーん。

言葉を発する目的を考えなきゃね

 というわけで、ヒトを動かすためには、正確さ、論理性、実証性を確保しさえすればいいとは限らないってことになりはしないだろうか。何も不正確で非合理的で無根拠な話がすばらしいってことを云いたいわけぢゃぁない。ここまで読んでくださった方なら、それくらいのことはお分かりいただけると思う。
 文章を書く、ヒトと話をする、そういうとき、だれを相手にしているのか、何を目的にしているのか、どんな状況におかれているのか、そこいらへんに思いをめぐらしたうえで言葉の組み立てを考える必要がある。とにかく特定のこいつをとにかく頭に入れてほしいってときには、正確さをある程度犠牲にせざるを得ないことも出てくるかもしれない。あるいは、何とか特定の行動を促そう/止めようとするなら、理屈と実証だけでは済まないケースだってあるに違いない。そういうことをよくよく意識しておかないと、どこぞの文章講座の売り文句みたいな「わかりやすくて論理的な文章はだれでも書ける」といったお話も、それ自体何の役にも立たないってことになっちゃう、のかもしれない。よっく考えなきゃいけないことだな。ここいらへん。
 とまとめると、いささかならず当たり前にすぎる結論になっちゃうんだがぁ\(^O^)/

影響力の武器[第二版]―なぜ、人は動かされるのか
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社会行動研究会
誠信書房 (2007-09-14)

影響力の武器 実践編―「イエス!」を引き出す50の秘訣
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安藤 清志 監訳, 高橋 紹子 訳
誠信書房 (2009-06-09)


戦前の少年犯罪
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築地書館 (2007-10-25)
 少年犯罪って実は……ってあたり、これを読むとうんざりするほどよくわかる



 「実験に携わっている社会心理学者の間ではすでに有名な事ですが、人は何が自分の行動に影響を与えているのかを自分ではほとんど認識できていません」ってなあたりを知るには、下條信輔のサブリミナルものも打ってつけ。

  • 注1原文縦書き漢数字。以下同様。
  • 注2強調、原文では傍点。以下同様。
  • 注3記号省略。

(最終更新日時:2010-02-22 16:46:17)  
 メイルの文面については一度触れたことがある(cf. 「電子メール、年輩者は重く、若い世代は軽く捉えすぎているんじゃないだろうか」 )。今でも基本的な考え方はまったく変わっていない。「基本は『三段構成』――今さら聞けないビジネスメールの書き方」(はてなブックマークニュース) が紹介するあれやこれやは便利には違いないのだけれど、一方で中には紙の手紙のルールを持ち込んだだけの面倒なお作法を、今も後生大事に語るページもあって、せっかくの簡便なコミュニケーションのツールに、わざわざ旧弊なバッドノウハウを持ち込むのは困ったものだと思わずにはいられない。細かなお作法に煩い年輩者へのメイルには、そういう退屈なルールも嫌々ながらでも従わなきゃいけないことだってあるのはたしか。でも、そういうルールに縛られ続けるのは、後に続く者たちには迷惑極まるものだろう。

 とはいえ、メイルに一定のスタイルを意識しておくということはあっていい。冒頭に簡便な挨拶とすっきりした本文、簡単な挨拶で結ぶ。そういうスタイルの一つの範型として英文メイルの書き方は使えるかもしれない。そういう意味で、英文メイルの用例としてだけではなく、日本語でメイルを書く上でも、「【Tip】英文メール用例をまとめて検索!」(英辞郎 on the WEB、スペースアルク) は参照されていいものになりそうだ。ただの英文メイルの書き方本だって有益だろうけれど、用例の豊富と検索の簡便において、これはそういうのに勝る使い方ができそうだ。




英辞郎 第五版
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アルク (2010-02-02)



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